新聞社と将棋界、囲碁界は切っても切れない関係にあります。新聞各社が出資、主催する棋戦はプロ棋士の主戦場であり、一方で対局の内容を詳しく解説した観戦記は紙面に欠かせないコラムとして定着しています。新聞社が日本の伝統文化である将棋、囲碁の発展に果たした役割は大きく、その中で日経は「王座戦」の名前で長年、将棋と囲碁の棋戦を主催してきました。
将棋王座争奪戦の始まり
「将棋王座争奪戦」の社告が出たのが1952年10月26日付朝刊。1カ月半後の12月12日付朝刊には「囲碁王座争奪戦」の社告が出て、ほぼ同時期に両棋戦がスタートしました。
最初にアイデアを持ち込んだのは、当時の日本将棋連盟の常務理事で、初の大卒棋士として知られる加藤治郎名誉九段。日経側で交渉に当たったのが大軒順三編集局次長(=当時、後の社長)で、「王座戦」の名付け親は、やはり将棋の花村元司九段でした。
大軒氏が後に囲碁の雑誌「棋道」で明かした話によると、「合理的で民主主義時代にふさわしいゲームの運び方」として加藤名誉九段が推奨したのが、名人から最下段まですべての棋士が同じスタートラインに立って頂点を目指す方式でした。今でこそ、全棋士平等は当たり前ですが、当時は斬新で、「他の新聞棋戦の邪魔にならず、どれとも違った新機軸を打ち出したい」と考えていた大軒氏の思惑と一致したとのことです。新しい棋戦に導入した「勝つごとに対局料が倍増するシステム」も、棋士の間で大変、話題になったとのことです。
第1期の将棋王座は大山康晴十五世名人。決勝一番勝負で丸田祐三九段を破りました。2期目からは決勝三番勝負に変更されましたが、ここでも勝ったのは大山十五世名人。結局、3期まで連覇しましたが、当時はトーナメントの下から勝ち上がった2人が決勝を戦う方式で、現在のようにタイトル保持者が防衛戦に臨むのに比べて連覇は難しく、さすがの強さといえるでしょう。この後、大山十五世名人は7期、12期、14期、16期と勝って、通算7期優勝しています。
第1期で敗れた丸田九段は8期と13期の2回優勝。王座戦の仕組み作りをする際に将棋連盟の理事として関わっていた経緯があり、王座戦との縁の深さを感じさせます。対照的なのが升田幸三九段。大山十五世名人のライバルとして有名な棋士ですが、王座戦では第2期の決勝に登場しただけ。しかも三番勝負の第3局は病気のため不戦敗でした。
囲碁の第1期は橋本宇太郎九段。当時の実力者の一人ですが、1950年に関西棋院を率いて日本棋院から独立した直後で、日本棋院への対抗意識が強かったそうです。将棋と同様、2期目からはトーナメントを勝ち上がった者同士の三番勝負に変更されましたが、橋本九段が3期、4期と連覇。さらに7期は橋本昌二九段、8期と11期は半田道玄九段と、いずれも関西棋院の棋士が制しました。ただ、その後、関西棋院の棋士が王座を獲得したのは29期の橋本昌二九段と62期の村川大介九段だけです。
人気企画と激しい戦い
初期の頃、将棋、囲碁の両方で人気があったのが、読者に「次の一手」を当ててもらう企画です。途中、観戦記の棋譜の掲載を休み、その間にハガキで応募してもらう。今のように棋譜の情報が流布していない時代だからこそできた企画ですが、棋力の弱い人でも当てずっぽうで当てることができるため、大いに人気を博しました。読者の目当ては、成績優秀者と抽選で当たった人を東京、大阪に招いて行う棋力認定会。試験対局をする棋士の顔ぶれがものすごく、例えば将棋の木村義雄十四世名人や大山十五世名人らも参加していました。プロとアマが交流する機会が少なかった時代、双方に喜ばれる企画でした。
また、囲碁では3期目からコミが4目半から5目半に変更されました。コミというのは白番に与えられるハンディキャップのこと。陣取りゲームである囲碁では後手にハンディを与えてゲームの公平性を保っていますが、他棋戦に先駆けてコミを5目半に増やしたのが王座戦でした。現在のコミは6目半。大ゴミの時代を先取りした先進的な取り組みだったと言えます。
囲碁は16期から、将棋は18期から、タイトル保持者とトーナメントを勝ち抜いた挑戦者が戦う挑戦手合い制に移行しますが、この時期に囲碁で活躍したのが藤沢秀行名誉棋聖で、15期から3連覇します。そして、この後、18期から3連覇した坂田栄男二十三世本因坊は挑戦手合い制になる前に4期制しており、合わせると7期。この両者で20期までの半分を制した形です。両者の直接対決は2回で1勝1敗。ライバル意識をむき出しにした、激しい戦いだったそうです。
将棋ではこの時期から中原誠名誉王座の活躍が始まります。
17期から加藤一二三九段らを相手に6連覇し、23期に桐山清澄九段にいったん奪われるものの、24期に奪い返してからは4連覇。25~27期はいずれも大内延介九段が相手でした。31期からの4連覇、36期からの2連覇と合わせ通算16期獲得は偉大な記録です。「連続5期または通算10期」という名誉王座の条件もクリアし、初めて名誉王座の資格を得ました。十六世名人、永世十段の資格も持ち、多くの棋戦で活躍している名棋士ですが、その中でも最も多くタイトルを保持したのが王座です。内弟子時代、師匠の高柳敏夫名誉九段が王座戦の観戦記を執筆していて、その原稿を当時、茅場町にあった日経本社によく届けに来たとのこと。日経との縁の深い棋士の一人です。ライバルと言われた米長邦雄永世棋聖が王座戦の決勝戦、番勝負に一度も登場しなかったのとは対照的です。
囲碁で名誉王座の資格を得たのは加藤正夫名誉王座です。27期に木谷実九段門下の兄弟弟子である石田芳夫二十三世本因坊から王座を奪取し、28期も防衛。29期に橋本昌二九段に奪われたものの、次の期にすぐに奪い返し、そこから8連覇。41期の返り咲きを含めた通算11期の記録は、囲碁王座戦ではまだ破られていません。当時、木谷門下だけでも大竹英雄名誉碁聖、石田二十三世本因坊、武宮正樹九段、小林光一名誉棋聖、趙治勲名誉名人ら強豪がタイトル戦でしのぎを削っていましたが、その中で加藤名誉王座の王座戦での活躍は突出しています。「王座戦男」と呼ばれる所以です。
ちなみに将棋、囲碁とも32期から五番勝負に移行。中原名誉王座と加藤名誉王座がいずれも防衛に成功し、安定した強さをみせつけました。
偉大な記録と新時代の始まり
40期の囲碁王座戦では偉大な記録が生まれました。39期に22期ぶりに復活を果たし、世間を驚かせた藤沢秀行名誉棋聖が、当時、脂が乗り切っていた小林名誉棋聖の挑戦を退け、67歳という最高齢タイトルホルダーの記録を作ったのです。
静岡県伊東市で行われた第3局では大石を取り合ったあげくに藤沢名誉棋聖の半目勝ち。終局後に異例の数え直しが行われたことが激闘ぶりを物語っています。この最高齢記録は、なかなか破られることのない記録でしょう。
将棋は「中原時代」が終わり、「羽生時代」が始まります。38期に谷川浩司九段が中原名誉王座を破り、翌年は福崎文吾九段が新王座に。
そして羽生善治九段が初めて王座に就いたのが40期でした。その後、谷川九段、島朗九段らの先輩棋士や、佐藤康光九段、藤井猛九段といった同世代のライバル棋士、久保利明九段、木村一基九段らの後輩棋士の挑戦をことごとく退けて連続防衛を続け、何と19連覇。同一タイトルの連覇記録として、将棋史に残る偉大な記録を残しました。特に53期から58期まではすべて3連勝防衛。52期の最終局から数えてタイトル戦19連勝も隠れた大記録です。
59期に渡辺明九段に敗れましたが、翌60期にはトーナメントを勝ち上がって挑戦者になり、すぐさま王座を奪還。特に決定局となった第4局(神奈川県秦野市の陣屋)は、劣勢だった後手番の羽生九段に妙手が出て、深夜に千日手指し直しに。指し直し局が終わったときには朝刊の締め切り時間はとうに過ぎていて、「羽生が王座奪還」の初報は夕刊回しになりました。両者の熱闘ぶりを示すエピソードです。このあと羽生九段はさらに5連覇。65期に敗れるまで26年連続で五番勝負に登場しましたが、この記録も簡単には破られない記録です。
国民栄誉賞の受賞まで
囲碁の方では藤沢名誉棋聖の大記録の後、趙治勲名誉名人と王立誠九段が活躍しました。史上最多75のタイトルを獲得している趙名誉名人ですが、王座は若いころの1期(24期)を含め3期だけ。一方の王九段は46期からの3連覇を含む4期を獲得しています。両者の直接対決は4回あり、王九段の3勝1敗。ただ、47期から3期連続で挑戦し、49期にタイトルを取ったのは趙名誉名人の執念でした。
続いて活躍したのが王九段と同じ台湾勢の張栩九段。51期から3連覇したのに続き、56期からは4連覇。通算7期は、坂田二十三世本因坊と並び、加藤名誉王座に次ぐ記録です。囲碁王座戦は、世界戦の持ち時間の主流が3時間以内になったことに対応して国内戦では他棋戦に先駆けて持ち時間の短縮化に取り組み、55期からは従来の5時間から3時間に変更しました。早見えの張九段の活躍の背景に持ち時間の短縮化があったのは事実です。また、52期から3年連続で挑戦し、54期に奪取した山下敬吾九段は、張九段と同世代のライバル棋士としての意地を見せつけました。
60期、台北で行われた第1局、第2局の連続対局。地元出身で5連覇による名誉王座資格獲得がかかった張九段を平成生まれの井山裕太九段が連破したのは衝撃的でした。
八冠独占の偉業
タイトルも奪取して、以後、井山時代に突入します。囲碁界初の同時七冠を達成するなど他棋戦でも活躍し、2018年には長く将棋王座として活躍した羽生九段とともに国民栄誉賞を受賞したのは周知の通り。そして王座戦では71期で防衛を果たして3連覇・通算9期に達し、名誉王座の称号の資格を得られる通算10期まで、あと1つとしました。
将棋の方では65期に羽生九段の連覇を阻止した中村太地七段が翌年、斎藤慎太郎八段に敗れ、その斎藤八段も翌67期には永瀬拓矢九段に敗れる目まぐるしさ。71期に藤井聡太七冠が王座を奪取し、史上初となる八冠独占の偉業を成し遂げました。
歴代王座一覧
▼歴代王座の一覧はこちらからご覧になれます
期 | 年 | 将棋/ 優勝者 | 囲碁/ 優勝者 |
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1 | 1953 | 大山康晴 | 橋本宇太郎 |
2 | 1954 | 大山康晴 | 高川 格 |
3 | 1955 | 大山康晴 | 橋本宇太郎 |
4 | 1956 | 小堀清一 | 橋本宇太郎 |
5 | 1957 | 松田茂行 | 島村利博 |
6 | 1958 | 塚田正夫 | 藤沢朋斎 |
7 | 1959 | 大山康晴 | 橋本昌二 |
8 | 1960 | 丸田祐三 | 半田道玄 |
9 | 1961 | 本間爽悦 | 坂田栄男 |
10 | 1962 | 加藤一二三 | 宮下秀洋 |
11 | 1963 | 灘 蓮照 | 坂田栄男 |
12 | 1964 | 大山康晴 | 坂田栄男 |
13 | 1965 | 丸田祐三 | 半田道玄 |
14 | 1966 | 大山康晴 | 坂田栄男 |
15 | 1967 | 山田道美 | 藤沢秀行 |
16 | 1968 | 大山康晴 | 藤沢秀行 |
17 | 1969 | 中原 誠 | 藤沢秀行 |
18 | 1970 | 中原 誠 | 坂田栄男 |
19 | 1971 | 中原 誠 | 坂田栄男 |
20 | 1972 | 中原 誠 | 坂田栄男 |
21 | 1973 | 中原 誠 | 林 海峰 |
22 | 1974 | 中原 誠 | 石田芳夫 |
23 | 1975 | 桐山清澄 | 大竹英雄 |
24 | 1976 | 中原 誠 | 趙 治勲 |
25 | 1977 | 中原 誠 | 工藤紀夫 |
26 | 1978 | 中原 誠 | 石田芳夫 |
27 | 1979 | 中原 誠 | 加藤正夫 |
28 | 1980 | 大山康晴 | 加藤正夫 |
29 | 1981 | 大山康晴 | 橋本昌二 |
30 | 1982 | 内藤國雄 | 加藤正夫 |
31 | 1983 | 中原 誠 | 加藤正夫 |
32 | 1984 | 中原 誠 | 加藤正夫 |
33 | 1985 | 中原 誠 | 加藤正夫 |
34 | 1986 | 中原 誠 | 加藤正夫 |
35 | 1987 | 塚田泰明 | 加藤正夫 |
36 | 1988 | 中原 誠 | 加藤正夫 |
37 | 1989 | 中原 誠 | 加藤正夫 |
38 | 1990 | 谷川浩司 | 羽根泰正 |
39 | 1991 | 福崎文吾 | 藤沢秀行 |
40 | 1992 | 羽生善治 | 藤沢秀行 |
41 | 1993 | 羽生善治 | 加藤正夫 |
42 | 1994 | 羽生善治 | 趙 治勲 |
43 | 1995 | 羽生善治 | 王 立誠 |
44 | 1996 | 羽生善治 | 柳 時熏 |
45 | 1997 | 羽生善治 | 山田規三生 |
46 | 1998 | 羽生善治 | 王 立誠 |
47 | 1999 | 羽生善治 | 王 立誠 |
48 | 2000 | 羽生善治 | 王 立誠 |
49 | 2001 | 羽生善治 | 趙 治勲 |
50 | 2002 | 羽生善治 | 王 銘琬 |
51 | 2003 | 羽生善治 | 張 栩 |
52 | 2004 | 羽生善治 | 張 栩 |
53 | 2005 | 羽生善治 | 張 栩 |
54 | 2006 | 羽生善治 | 山下敬吾 |
55 | 2007 | 羽生善治 | 山下敬吾 |
56 | 2008 | 羽生善治 | 張 栩 |
57 | 2009 | 羽生善治 | 張 栩 |
58 | 2010 | 羽生善治 | 張 栩 |
59 | 2011 | 渡辺 明 | 張 栩 |
60 | 2012 | 羽生善治 | 井山裕太 |
61 | 2013 | 羽生善治 | 井山裕太 |
62 | 2014 | 羽生善治 | 村川大介 |
63 | 2015 | 羽生善治 | 井山裕太 |
64 | 2016 | 羽生善治 | 井山裕太 |
65 | 2017 | 中村太地 | 井山裕太 |
66 | 2018 | 斎藤慎太郎 | 井山裕太 |
67 | 2019 | 永瀬拓矢 | 芝野虎丸 |
68 | 2020 | 永瀬拓矢 | 芝野虎丸 |
69 | 2021 | 永瀬拓矢 | 井山裕太 |
70 | 2022 | 永瀬拓矢 | 井山裕太 |
71 | 2023 | 藤井聡太 | 井山裕太 |
※囲碁王座戦:第2期より決勝三番勝負、第16期より挑戦制、第32期より五番勝負