2015年7月23日、日経は英国の有力経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)を発行するFTグループを出版や教育事業を手がける英ピアソンから買収する、と発表しました。日英の有力経済メディアが統合し、世界最大のビジネスメディアグループが誕生する。このニュースは大きな反響を呼び、海外でも大きく報じられました。
この買収は日経にとっても初めてのことばかりでした。まず海外企業の買収自体が初めてだったこと。少数株主として出資したことはありましたが、経営権を握ったことはありませんでした。しかも買収額は1600億円と大きく、それまでの数億円から数十億円の規模とはかけ離れていました。日経のみならず、日本のメディア企業による海外企業の買収としても過去最大の規模だったのです。

「真のグローバル・メディア」に向けて

日経がこのような大きな挑戦に踏み切った背景には、日本国内での新聞事業、という従来のビジネスに限界が見えていたことがあります。新たな成長分野を求め、2010年に日経電子版を創刊し、本格的なデジタル化を開始。海外市場においても「真のグローバル・メディアを目指す」という方針のもと、グローバル戦略の中核となる英文媒体「Nikkei Asian Review」を2013年に創刊していました。世界のビジネスパーソンに対して高い信頼とブランド力を持ち、デジタル化でも業界をリードしていたFTをグループに迎えることは、「デジタル」「グローバル」という経営戦略の遂行に向けて日経自身を変革する上で必要な選択、との判断がありました。

FT Foyer

特徴的なサーモンピンクの紙面で知られるFTは、1888年に英ロンドンの金融街シティーで創刊した世界的な経済金融情報紙です。英国や欧州にとどまらず、世界中のグローバル企業や政府指導層、金融関係者の必読紙として信頼を獲得しており、グローバルメディアと呼ぶにふさわしく英国以外の読者の比率が7割に上ります。経済メディアとして同じく100年以上の歴史を持つ日経と似た発展の歴史を歩み、1952年からは記事の相互利用契約を結ぶなど関係を築いていました。FTの社是「Without fear and without favour(恐れず、媚びず)」が日経の社是「中正公平」と通底するなど、価値観の面でも似通っています。



デジタル時代を生き抜くパートナー

日経がFTをパートナーとして選んだのは、そのブランド力に加え、デジタルメディアというビジネスで先進的な経営を行なっていたことも大きな理由でした。FTのウェブサイトでは、有料購読していないユーザーも一定本数までは記事を無料で閲覧でき、既定の本数を超えると有料課金するという「メーター制」を初めて導入、世界のメディアが追随しました。ユーザーの閲覧状況を分析し、最適なタイミングで購読プランのオファーを出すなど、データに基づく読者獲得モデルを早くから確立していました。編集プロセスもウェブサイトでの記事掲載を最優先とし、深夜の締め切りギリギリまで紙面制作を行う従来の働き方から転換していました。読者のアクセスデータを分析し、早朝と昼間にアクセスが最大になることがわかったため、その時間に編集プロセスのピークを移す決断をしたのです。

買収後、日経はFTとの交流を活発に行い、こうしたデジタル改革のノウハウから多くを学びました。特に編集の「デジタル・ファースト」の姿勢は大きな影響をもたらし、日経の編集局でもリアルタイムの読者の行動を観察しながら電子版の編集を行うことが当たり前の光景になっています。ただ、日本経済新聞とFTというそれぞれのメディアの編集上の判断は互いに独立しており、記事の扱いや書き方に口を挟むことはありません。あくまでビジネスモデルやデジタル化の進め方などの面で、互いに刺激を与え合っています。



クオリティ・メディアへの期待と責任

現在のブラッケン・ハウス

FTの有料購読者数は2019年3月末で100万人に達しました。このうちデジタルの購読者が8割に上ります。かつては広告収入への依存度が50%を超えていましたが、現在は読者からの購読料収入が大半です。わずか十数年の間に、商品・サービスの形態も、収入の内訳も大きく変化したことになります。そして19年5月にはFTの本社と日経ヨーロッパ社は、かつてFTの本社があったブラッケン・ハウスに移転し新しいスタートを切りました。

インターネットの登場で、メディアを始めることは簡単になり、ウェブ上には多くのコンテンツが溢れました。コンテンツは無料という考えが生まれ、伝統的な紙媒体中心のメディア企業は苦しい状況に追い込まれています。一方で、明らかな虚偽や不確かな情報が氾濫し、人々の意思決定のための判断材料が歪められる事態も起きています。それにより、かえって信頼のあるクオリティ・メディア、質の高い報道(クオリティ・ジャーナリズム)への需要がかつてなく高まっていることが、伝統メディアの苦境の中でFTが過去最高の有料読者数を記録したことの要因になったといえます。日経とFTは今後も世界の読者の期待に応え、日本と英国という2つの視点からユニークで質の高い報道を続けていきます。