昭和21年3月1日、戦時中の「日本産業経済」の題号が改められ、当初考案された「日本経済新聞」へと変わりました。号数は創刊号から通算して2万1630号。同13日に社名も「日本経済新聞社」へと変更されました。新たな題字は書家の上田桑鳩氏が揮亳しました。翌22年4月10日には新題号を考案した小汀利得社長の発案で「中正公平、わが国民生活の基礎たる経済の平和的民主的発展を期す」との社是が決まりました。新たなスローガンのもとで、現在の日経へとつながる歴史がスタートしました。(日本経済新聞100年史155〜157ページより抜粋)

「日本経済新聞」の誕生

日経が、現在の新聞の題号「日本経済新聞」になったのは1946年(昭和21年)3月1日から。中外商業新報の創刊号から通算して2万1630号を数えていました。社名も同13日に「日本経済新聞社」に変わりました。

それ以前の題号は「日本産業経済」。社名も「日本産業経済新聞社」でした。戦時下の昭和17年、物資不足の中で、政府当局は中外商業新報と日刊工業、経済時事新報など経済各紙の経営統合を指示。改題は合併の条件として政府から指示されたものでした。

当時、中外商業新報の主筆を務めていた小汀利得は「日本経済新聞」の題号を準備しましたが、当局は合併命令書に書かれた「新産業経済新聞社を作る」という指示通りの題号にすることにこだわり、「日本産業経済」が採用されました。

終戦を迎えると、政府から強制的に命名された題号を改題しようという意見が社内から起こり、小汀社長が当初考案していた「日本経済新聞」へと改題されました。題字は当時新進気鋭の書家だった上田桑鳩氏の筆によるものです。



ジャーナリスト・小汀利得

1947年には小汀社長の提唱により、「中正公平、我が国民生活の基礎たる経済の平和的民主的発展を期す」との社是が定められ、編集綱領としても採用されました。

中立で公平な立場から偏りのない報道を行うことを定めたものですが、この言葉には小汀のジャーナリストとしての矜持が反映されていました。

小汀利得氏

島根県出雲市で生まれ、32歳で当時の中外商業新報に入社した小汀は6年後の1927年に経済部長、34年には編集局長に就任します。

小汀の名が広く知られるようになったのは金輸出解禁の政策に対して、反対の論陣を張ったことです。29年7月に発足した浜口雄幸内閣は施政方針の柱として金輸出の解禁を掲げました。

しかし、小汀はこれに真っ向から反論。関東大震災や昭和恐慌の痛手が癒えない中、金本位制への復帰でデフレ圧力を強めることは経済に大きなダメージを与えるとして、小汀は社説などで金解禁への疑念を繰り返し表明しました。

その主張通り30年に政府が金輸出解禁を断行すると、前年の米国の大恐慌の影響も相まって物価は暴落、倒産が急増し、失業者が街に溢れました。



社是「中正公平」と日経の報道

当時、金融界や言論界の大勢は政府の方針を支持し、金解禁反対派は小汀や東洋経済新報主幹の石橋湛山ら少数でしたが、主張を曲げることはありませんでした。

小汀は後年、「日本の大学の経済学者も経済界も、金解禁っていうことはいかなることであるかということがわからなかったということです。......貨幣価値を上げれば物価が下がる、ところがそこで財界がどうなるか、なんてことはね、よく認識できなかった 」(「証言・私の昭和史」)と語っています。

小汀は編集局長だった戦時中にも、軍部に批判的な記事を構わず掲載し、頻繁に軍から呼び出しを受けていました。国防目的のため政府による新聞の発行停止の権限も盛り込んだ国家総動員法や、日独伊枢軸にも反対するなど信念を貫きました。

特定のイデオロギーや立場に依らず、権力にもおもねらず、物事を経済的見地から観察して「中正公平」に伝えるという日経のジャーナリズムの指針は、現在に至るまで受け継がれています。