1968年に就任した圓城寺次郎社長は、69年度経営計画で「経済を中心とする総合情報機関」との経営ビジョンを打ち出します。「経営態度としては慎重主義はとらず、いわば"波風の立つ"経営をしていきたい」と大胆にリスクをとる姿勢を前面に打ち出しました。69年には、米マグロウヒルと共同で日経マグロウヒルを設立し出版事業に乗り出したり、東京12チャンネル(現テレビ東京)の経営に参加したりするなど、マルチメディア化を推進。業務の中心にコンピューターを据えて新聞制作やサービスのあり方を大胆に改革する方針のもと、新聞製作を活版印刷から電子製作へと進化させるための研究もこのころ始まりました。

大手町本社に移転

1964年、東京オリンピックが開かれたこの年に、日経は中央区茅場町から千代田区大手町へと本社を移転します。

新たに竣工した大手町本社は「近代建築技術の粋を集めた最新のビルディング」で、編集、活版、写真製版、印刷、発送などのすべての部門に最新の機械が導入されました。

「日本経済新聞100年史」は、「編集局に集まる原稿や写真は局内に張り巡らされたエアシューター、ベルトコンベヤー、カードスライダーなどを利用し、ボタン一つで搬送される。写真製版では電子彫刻製版機が威力を発揮し、印刷部では自動鉛版鋳造機などの新鋭機が並び、重い鉛版は鉛版コンベヤーで新しい高速輪転機に運ばれた」と記し、文字通りの「ニュースの工場」の誕生に興奮する当時の様子を伝えています。

発行部数もこの年の4月に100万部を突破しました。



「経済を中心とする総合情報機関」

1968年に就任した圓城寺次郎社長は、69年度経営計画で「経済を中心とする総合情報機関」と題した経営ビジョンを打ち出しました。

「日経ビジネス」創刊号

「経営態度としては慎重主義はとらず、いわば"波風の立つ"経営をしていきたい」と大胆にリスクをとる姿勢を表明。

69年には、米出版大手マグロウヒルと共同で日経マグロウヒル(現・日経BP)を設立して出版事業に乗り出したり、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の経営に参加したりするなど、マルチメディア化を推進しました。

71年5月には日本初の総合的な流通専門紙である「日経流通新聞(現・日経MJ)」を創刊。日経本紙以外の新聞を発行するのは会社設立95年にして初めてのことでした。73年には「日経産業新聞」を創刊し、専門媒体の発行が本格化していきます。



スクープを連発

業績の拡大に伴って、ニュース取材の競争力も向上します。1969年、日経は「イタリア、中国承認へ」「三菱重工、クライスラー提携へ」「日銀総裁に佐々木直氏」とスクープを連発します。当時の取材の記録を見ると、「午後と深夜の2回、各人の情報を持ち寄り、ノートに書き込み、分析し、次の行動予定を立てるという作業を積み重ねていった。

こうしてスクープを完成したときには、その情報は大学ノート3冊にぎっしりつまるほどとなっていた」とあり、チーム取材で特ダネを追っていた様子がわかります。

その後も、「GM・いすゞ提携へ」「第一・勧銀が対等合併」などの特ダネを報じ、経済ニュースで他の追随を許さない取材力を確立しました。

71年6月には武山泰雄論説委員長が翌7月に実現するニクソン米大統領の訪中を予測する論説を執筆。72年10月には韓国の朴正煕大統領による戒厳令を特報するなど、政治・国際分野においても重要なニュースを報道しています。