「アジアの未来」
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日経アジア賞
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マハティール・ビン・モハマド氏
マレーシア 前首相

脱・欧米主義、主張貫く

 2003年まで22年間にわたって首相を務め、強力なリーダーシップでマレーシアの経済成長と発展を実現した。2020年までの先進国入りを目指す「ビジョン2020」の策定や国民車メーカー「プロトン」の設立、IT(情報技術)産業の振興などのプロジェクトを推進した。

 アジア通貨危機の際には自国通貨リンギの取引規制と為替相場のドル連動制(ペッグ制)を導入し、国際通貨基金(IMF)の支援を回避。当初批判を招いたものの、順調な経済回復を果たした手腕は高く評価されている。

 05年の東アジア首脳会議(サミット)で議論が本格的に始まった東アジア共同体構想の源流ともされる東アジア経済協議体(EAEC)創設を1990年代初めに提唱。米国の反対で立ち消えになった経緯もある。欧米主導の国際秩序や価値観に異議を唱えるアジアの代表的指導者として知られ、首相引退後も米国のイラク政策などへの鋭い批判を続けている。マラヤ大医学部卒、80歳。



1925年12月20日、マレーシア北部ケダ州の州都アロースター生まれ。
■略歴
    アロースターにて初等・中等教育を修了後、1947年にマラヤ大学医学部(当時在シンガポール)に入学する。

 卒業後、マレーシア政府医務官として勤務。1957年に退官し、アロースターで開業医となる。1945年より活発な政治活動を開始し、46年の設立当初より統一マレー国民組織(UMNO)に参加。64年に下院議員に選出されるが、69年の総選挙にて議席を失う。

 教育問題に高い関心を持ち、1968年に第一次高等教育委員長、72年に高等教育諮問委員、74年にはマラヤ大学役員および国立大学委員長に任命される。

 1973年に上院議員に任命されるが74年の総選挙出馬のため辞職。下院議員として見事復帰を果たし、教育相に就任する。

 1976年には副首相を兼務。78年の内閣改造で貿易産業相に就任、海外投資ミッションを率いて外国投資誘致をはかる。

 1975年にはUMNO副総裁補に他2名と共に選出、78年には副総裁に選ばれる。81年のトゥン・フセイン・オン首相辞任にともない、党総裁に任命され、同年7月16日にマレーシアの第4代マレーシア首相に就任した。

 1984年、87年、90年、93年の党選挙で総裁として再任され、82年、86年、90年、95年の総選挙では連立与党国民戦線(Barisan Nasional)を地すべり的勝利に導いた。

 2002年6月の党大会にて突如引退の意向を表明し国中を驚かせたが、党内、政府首脳の説得により、円滑な政権交代に必要な一定期間役職に留まることに同意した。

 2003年10月31日に首相を退任。農業依存型経済を工業基盤経済に転換させ、マレーシアを世界第17位の貿易国に育て上げた手腕は高く評価されている。

 1997-98年のアジア通貨危機では、IMF支援を拒み独自の政策で経済回復を果たし、成功モデルとなった。2003年マレーシアはマハティール首相の指導のもとイスラム諸国会議機構(OIC)と非同盟運動の議長国を務め、国際社会でも重要な役割を担った。

 これらの長年の国への貢献を評され、首相退任後、マレーシアの最高称号"Tun"を持つSeri Maharaja Mangku Negaraの勲章が贈られた。

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