「アジアの未来」
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日経アジア賞
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マハティール・ビン・モハマド氏
マレーシア前首相

引退後も発言力維持

 1981年から22年間にわたって首相を務め、かねて表明していた通り昨年10月末に退任した。退任に際しては政治・経済の混乱を招くことなく、アブドラ現首相への円滑な権限移譲を実現した。今年3月の連邦下院選挙には出馬せず政界から引退したが、その指導力と発言力に対する期待は大きい。

 アジア通貨危機の際には自国通貨の取引規制を導入し、国際通貨基金(IMF)の支援を回避。批判もあったが、順調な経済回復を実現した。イラク戦争に関しては「一般市民を殺傷するのはテロリズムだ」と臆(おく)せず米国を批判する一方、イスラム諸国には穏健主義による経済発展の重要性を訴える。

 「敗戦後の荒廃から見事に立ち上がった日本にできて、我々にできないことがあるだろうか」。昨年の非同盟諸国首脳会議では経済発展に取り残された国々を暖かく励ました。

 「マレーシア・ボレ(マレーシアにはできるんだ)」。2020年までの先進国入りを目指す基本計画を提示。国民車メーカー「プロトン」の設立や情報技術(IT)産業振興により産業構造の高度化を進め、国民を鼓舞し続けた。78歳。



1925年12月20日、マレーシア北部ケダ州の州都アロースター生まれ。
■経歴
 アロースターにて初等・中等教育を修了後、1947年にマラヤ大学医学部(当時在シンガポール)に入学する。
 卒業後、マレーシア政府医務官として勤務。1957年に退官し、アロースターで開業医となる。1945年より活発な政治活動を開始し、46年の設立当初より統一マレー国民組織(UMNO)に参加。64年に下院議員に選出されるが、69年の総選挙にて議席を失う。
 教育問題に高い関心を持ち、1968年に第一次高等教育委員長、72年に高等教育諮問委員、74年にはマラヤ大学役員および国立大学委員長に任命される。
 1973年に上院議員に任命されるが74年の総選挙出馬のため辞職。下院議員として見事復帰を果たし、教育相に就任する。
 1976年には副首相を兼務。78年の内閣改造で貿易産業相に就任、海外投資ミッションを率いて外国投資誘致をはかる。
 1975年にはUMNO副総裁補に他2名と共に選出、78年には副総裁に選ばれる。81年のトゥン・フセイン・オン首相辞任にともない、党総裁に任命され、同年7月16目にマレーシアの第4代マレーシア首相に就任した。
 1984年、87年、90年、93年の党選挙で総裁として再任され、82年、86年、90年、95年の総選挙では連立与党国民戦線(Barisan Nasional)を地すべり的勝利に導いた。
 2002年6月の党大会にて突如引退の意向を表明し国中を驚かせたが、党内、政府首脳の説得により、円滑な政権交代に必要な一定期間役職に留まることに同意した。
 2003年10月31日に首相を退任。農業依存型経済を工業基盤経済に転換させ、マレーシアを世界第17位の貿易国に育て上げた手腕は高く評価されている。
 1997-98年のアジア通貨危機では、IMF支援を拒み独自の政策で経済回復を果たし、成功モデルとなった。昨年マレーシアはマハティール首相の指導のもとイスラム諸国会議機構(OIC)と非同盟運動の議長国を務め、国際社会でも重要な役割を担った。

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