アジア賞 受賞者

経済発展部門倪潤峰(ニイ・ルンフォン)
四川長虹電子集団公司董事長兼総経理(中国)
技術開発部門マレーシアゴム研究所
(団体表彰、代表者アブドル・アジズ)
文化部門キム・ジョンオク
劇団自由創立者・芸術監督(韓国)


<経済発展部門>
倪潤峰(ニイ・ルンフォン)
四川長虹電子集団公司董事長兼総経理(中国)
 中国の三国志で有名な四川省。この三国志の故郷から世界有数のカラーテレビ会社が生まれた。
 四川長虹電子集団公司。三国時代の蜀の国(現在の四川省)の省都、成都から車で約2時間かかる都市、綿陽にある家電メーカーだ。今や年産台数660万台、沿海部の先進的なカラーテレビ企業の規模をしのぐ中国一の販売量を誇る。
 もとはレーダーを生産していた国有軍需工場を中国最大手の家電企業に変身させたのが、倪潤峰董事長だ。政府頼みの軍需工場に最大のピンチが訪れたのは85年。倪董事長の工場長就任直後。国防産業を民需転換させる号令で政府の援助が大幅カットされ、市場経済の荒波に放り出された。
 「政府を探さずに市場を探せ」と当時の電子工業相から厳しい要求を受けたときはショックだったという。
 レーダー工場から「家電の王様」の過程はまさにいばらの道。80年代の中国の家電ブームの風向きをとらえ発展の軌道に乗せるには多くの困難があった。
 最大の障害は社員の顧客に対する意識の欠如。国防のためレーダーを納入するという意識が強く、民需生産を軽視しがちだった。日本の松下電器産業からテレビ生産ラインの移転を85年に受けたが、工員の中にはテレビ生産への抵抗も強かった。お客の声に耳を傾ける段階にはほど遠い状況だった。
 援助の削減に加え軍事需要減少で受注額もがた減り。企業の前途に暗雲が漂った。途方にくれた倪董事長に光明を与えたのは慣れ親しんだ三国志。劉備などの英雄も一挙に国とりができたわけではなく、周囲の城を1つずつ陥落させ功業を立てた。歴史を思い起こし、テレビも足元の市場の攻略に焦点を定めた。
 内陸部や東北地方などメーカーの技術力の弱い地域に目をつけ市場の攻略を狙った。内陸部のカラーテレビは装備に不備があり故障も多い。返品率ゼロを目指した高い品質管理とアフターサービスで顧客の人気をさらい、80年代後半のテレビブームの大波に乗った。他社にないリモコンの販売も好評だった。
 その後、念願だった外資系企業の多い揚子江地帯や華南地帯への進出を果たした。素早く29インチの大型テレビの発売に乗り出し、買い替え需要を総ざらいして97年の国内の市場占有率は35%にまで高まった。98年には45%の達成を目指す。
 値下げの判断も早い。中国は80年代の家電ブームが一巡し、95年から供給過剰が深刻になった。長虹も在庫を大量に抱えていたが、96年に8−16%の価格引き下げを他社に先駆け断行。市場の動きを毎日深夜まで検討してきた倪董事長の決断だった。
 「メーカー自身が値下げして売るという発想が意外だった。市場経済の実例を学んだ」(上海の大手家電メーカー幹部)とライバルメーカーも舌を巻く。
 中国のテレビ市場の先行きには悲観的な見方もある。だが、倪董事長は都市部で生まれる大型テレビなどへの買い替え需要や農村部への普及で広大な市場が育ちつつあると見る。98年は900万台の販売を目指す。輸出も今後の課題だ。
 倪董事長の合理主義は有名だ。経費節減のため綿陽市内では自分で車を運転する。工場には新鋭設備を投入するが、オフィスは50年代の古い建物のままだ。
 倪氏の経営は国有企業の経営に厳しい朱鎔基首相をうならせた。朱氏が副首相時代の96年に視察した際、「国有企業が長虹のようであれば、中国はさらに発展する」と高く評価した。内陸振興を目指す中国政府にとって長虹のような内陸企業の発展は心強い援軍でもある。
 「長虹というリンゴはまだ赤くなっていない」。倪董事長はこう語る。今後、パソコンの生産にも乗り出し、21世紀への情報家電産業を目指す。
 20年に及ぶ改革開放政策は中国の土壌に果敢な企業経営者を生み出した。このサクセスストーリーが赤字にあえぐ国有企業に伝播(でんぱ)し福音となるか。共産党中央委員候補になり政界にも足を踏み入れた倪董事長の挑戦は続く。(アジア部次長 佐藤隆二)

<略歴>
 1944年2月生まれ。67年に大連工学院卒、四川省綿陽市の国営長虹機器廠に入社。工場長補佐を経て85年に工場長に就任。88年に長虹機器廠を母体に四川長虹電器公司(株式会社)を設立、董事長兼総経理(会長兼社長)に就任。第15回共産党全国代表大会で中央委員候補に選出。

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<技術開発部門>
マレーシアゴム研究所
(団体表彰、代表者アブドル・アジズ)
 「今回の受賞の栄誉は、私たちだけが浴するものではありません。マレーシアの天然ゴムにかかわる農家、産業界の人にとっても大きな名誉なのです」
 「消費者の寄与も忘れてはなりません。彼らの厳しい声が、マレーシアのゴムの品質を大きく向上させる原動力になったのですから。受賞者の中には消費者も含まれていると思っています」
 クアラルンプール市内のマレーシアゴム研究所(RRIM)で、マレーシアゴム局(MRB)のアブドル・アジズ専務理事は息もつかずに一気に話す。
 長い伝統をもつRRIMは、ことし初めに天然ゴム関連の他の2つの組織と統合、MRBとして新発足した。母体になったのはRRIMで、MRBになっても業務の90%以上は研究開発だ。アジズ氏はRRIMの所長でもあり、文字通りマレーシアの天然ゴムの研究、生産、利用の各面での指導者の1人である。
 今回の日経アジア賞技術開発部門の受賞者が個人ではなく団体になったのは、RRIMの長年にわたる世界を舞台にした活動実績を評価してのことで、その成果は多くの人の努力の集積によって生まれたからだ。
 およそ150年前にブラジルから持ち込まれたゴムの木は、よほど風土が合ったのだろう、マレーシアの地にしっかり根付き、同国を代表する木になってゴム産業を育てた。
 RRIMは長年、ゴムの木の品種改良、疾病の防除などに力を入れてきた。その成果で、40万戸の、小規模農家が多いといわれる天然ゴム生産者の経営改善が大いに進んだのはよく知られている。
 また、天然ゴムの利用法の開発にも取り組み、いち早くマレーシアゴム標準を確立して、天然ゴムが工業素材として優れたものであることを世界に知らしめた。
 この努力は現在も続いており、天然ゴムを新しいエンジニアリング素材として利用する道を模索している。「ゴムに関するあらゆる研究開発を通じて、マレーシアの産業の核を作っていくのが私たちの目標であり、使命なのです」とアジズ氏は言う。
 その中核になる施設を訪ねた。
 クアラルンプール市の中心部から車で30分ほどのスンガイブローにRRIMの実験ステーションがある。1300ヘクタール余りの敷地の中に栽培試験農園や育種場、ゴム製品の開発センター、試験センター、研究所をはじめ作業者の住宅や子弟の通う学校まで備えたゴムの一大センターだ。「単一商品に関する世界最大の研究機関」とRRIMが自負するのもうなずける。
 研究所の中で、1つの新しい試みを見た。遺伝子工学の手法を用いて、ゴムの木に医薬品を作らせようというのだ。
 「ゴムの木は樹液をたくさん出します。その中に、有用な物質を分泌させるのが狙いです。すでに技術の基盤はできました」と、バイオテクノロジー及び戦略研究部門長のH・Y・イェン博士は語る。
 牛や羊の乳汁の中に薬品やワクチンを分泌させる試みは各国で研究中だが、植物ではきわめて珍しい。ゴムに関する基礎研究や豊富な知識をもつRRIMならではの仕事だ。
 現在、世界の天然ゴムのシェアは約40%。しかし、耐久性や対油性が高いという特徴が見直されて、天然ゴムの消費は増加傾向にある。
 マレーシア政府は、1996年から10年の予定で進んでいる第二次産業開発計画の中でゴム産業のさらなる育成を大きな柱にしている。マレーシアゴム研究所は、通称ラバーシティー(ゴムの町)という天然ゴムに関するセンター作りを通して、この計画の中核組織になろうとしている。(編集委員 中村雅美)

<略歴>
 ゴム栽培業者が1900年に共同で設立した研究機関が母体に。25年に国の機関としてマレーシアゴム研究所の名称で植物学、化学、土壌学、病理学の4部門に20人のスタッフをもつ研究機関として発足した。27年に実験農場を創設、37年に現在地に本部を構えた。ゴムの木の品種改良から栽培技術、天然ゴムの産業利用、普及まで活動の幅は広い。98年1月からはマレーシアゴム局傘下の研究機関として活動している。

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<文化部門>
キム・ジョンオク
劇団自由創立者・芸術監督(韓国)
 「世界へ向けた新しい演劇文化の発信が、アジアからできる」
 金氏の考えは当初、夢のようだったかもしれない。だが、これを実現し、韓国の現代演劇の水準を高め、合わせてアジアの文化の普遍性を世界に知らしめた。
 パリに本部のある国際演劇協会(ITI)の会長職を3年前から務めているが、この協会の代表はずっと欧米からで、アジアから出たのは初めてということも、金氏の功績の大きさを物語る。
 これまで80を超す作品の演出を手がけ、分野もヨーロッパの不条理劇から創作演劇まで幅広い。どの作品でも共通して韓国自身の文化、アイデンティティーを基本に据える演出を開拓してきた。
 韓国には仮面劇、パンソリなどの伝統芸能や音楽が今に生きている。シャーマニズムに基づく生命観もある。これらを古くさいものとせず多くの素材を吸収したばかりか、衣装デザインまで含めてよみがえらせ、現代演劇に大胆に盛り込んでいった。
 一連の作品は1966年に創設した「劇団自由」を通じて諸外国で巡演。韓国国内でも理解されるかとの危惧(きぐ)はあったが、結果は世界的に注目を浴びる。
 技法が斬新(ざんしん)なだけではない。旅芸人の一座を軸にした「名もない花は風に散る」、人間の生死を見据えた「死んだらなにになるか」などの作品は日本でも上演されたが、その中に「死んでも倍になって生きるのが人間」というセリフがある。「生と死は連続したもの」と語る金氏は、東洋的な世界観を軸に据えている。
 昨年秋、ITI主催の国際演劇祭がアジアでは初めてソウルで開催された。総責任者として成功に導いた金氏は、記念にシェイクスピアの「リア王」を国際版で演出した。
 これは7カ国から選ばれた俳優がセリフは母語のまま、例えばリア王役は韓国語、道化役たちは英語も日本語もという多国籍演劇で、演技やしぐさまで各俳優にまかされる。多国籍演劇の試みはそれまでにもあるが、金氏はそれを内容的に一層深めた。
 「アジア人はヨーロッパ人が怒るようには怒らない。しぐさは蓄積された歴史の表れです。違っていて当然で、演技は西洋のものまねであってはならない」というのが基本姿勢で、俳優にも自由な発想からの演技を勧める。金氏の薫陶を受けて活躍中の俳優は多い。
 自分の目指す演劇を「第三の演劇」と表現する。「伝統と現代、東洋と西洋との出合いと融合から、第三の文化をつくらなければ」
 金氏はいつも愛用のベレー帽姿で、あくまで謙虚な身のこなし。ソウル郊外に床下暖房のオンドルを備える古い民家を保存し、小庭には古い石像が所狭しと並ぶ。木の農具類や、キムチを漬ける大型のカメも十数個。「ええ、みんな私が集めたんです」。ハハハ……と少し残念そうに笑い、「韓国でも、こうした伝統文化が分からなくなりますから」と付け足す。
 「これらは自分を芸術家とも考えない人たちがつくった。私はつくり手たちの声なき声を聞いてインスピレーションを得ている。生活のための素朴なものでありながら、現代美術のような豊かな感性がある」。石像は「私にとっての俳優」ともいう。「そう……何百年も前からの演技を今に伝える俳優なのです」
 映画の監督もし、大学で教え、国際文化交流にも尽力しと、多才な文化人の金氏は今、野外劇場新設の構想を練っている。収集した石の文化財もここに配置する。「歴史と現代が融合する、アジア文化の施設にしたい。世界の文化の出合いの場にもなるでしょう」
 常にチャレンジの演出家に世界の期待が集まっている。(編集委員 青柳潤一)

<略歴>
 1932年ソウル生まれ。ソウル大学卒後、56年からパリ・ソルボンヌ大学留学。59年、中央大学に新設の演劇映画科教授。66年に「劇団自由」を旗揚げし、数々の演出を手がける。韓国の演劇協会、映画学会の代表、中央大学芸術学部学長などを歴任し、91年大韓民国芸術院会員に。95年から国際演劇協会(ITI)会長。「演劇的創造の道」など多数の著書がある。

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