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 展覧会守る絵のドクター・森 直義
 

 人生には不思議な巡り合わせがあるものだ。美術史を学んでいた学生時代、星の数ほどある海外の美術館の中で初めて行ったところは、有名なルーヴルでもオルセーでもなく、ロンドンのコートールド美術館だった。

印象派の名作そろう

 日本でその名はまだ広く浸透していないが、マネ《フォリー=ベルジェールのバー》やルノワール《桟敷席》のような印象派、後期印象派の名作を数多く所蔵している。特に《サント=ヴィクトワール山》《カード遊びをする人たち》《アヌシー湖》などセザンヌの代表作がそろう。私はセザンヌについて卒論を書く下準備のために訪れたのだ。

 それから20年、今度は立場が変わり、現在国内を巡回中の[コートールド・コレクション展]にスタッフの1人として携わることになった。私は絵画修復家で、今回公開に先立って出品作の状態を点検し、必要があれば応急的な修復を行う任務を担当した。いわば美術作品を診断する医師みたいなもので、欧米ではこうした仕事の専門家は、コンサベーターと呼ばれている。

 出品作は油彩、ドローイング、版画など約130点とかなりの数にのぼるため、ロンドンでの事前調査は1週間を要した。コートールド美術館のスタッフとともに、1点ずつ作品をテーブルにのせ、ライトを片手に隅から隅まで点検していく。かつて食い入るように見つめた絵画との再会は感慨深いものがあった。(写真は、東京会場で展示作業を指示する森氏=左端)

亀裂や剥離をチェック

 具体的にいうと、絵の具層の不安的な亀裂や剥離(はくり)がないか、注意深く目を凝らすので、かなりの神経を使う。裏打ちの状態もチェックしなければいけない。ゴッホの代表作《耳を切った自画像》も裏打ちされているが、特殊な接着剤が用いられ石のように固化している。はがすと原画を傷つける危険性があって修復自体が困難だった。長時間の輸送では突然の揺れや衝撃も予想されるので、日本で公開したい作品であったが、大事をとって出展を断念することになった。

 額縁も大切な調査対象の一つ。絵画がしっかり収まっているか入念に調べた。出品作のうち版画は展覧会に合わせて新たに額装されたが、一部の作品にやや不安定なものがあった。そのため美術館のスタッフと協議して、取り換えたりした。想定しうるリスクはすべて回避するのが作業上の鉄則である。

 これまでの経験からいうと、こうした作業の過程で問題点が見つかることが少なくない。しかし今回は総じて出品作の保存状態は良かった。コートールド美術館は保存、修復の専門スタッフがそろい、的確な処置を施し作品の劣化を極力おさえている。彼らの不断の努力が今展の開催を可能にしたといっても過言ではない。

 たとえば近代絵画の巨匠セザンヌの《サント=ヴィクトワール山》。作品表面のよごれなどを除去する洗浄が適切になされ、作品はみずみずしさを保っている。今展の入館者は展覧会場で、セザンヌの躍動感に富んだ筆触と色彩の輝きを堪能できるだろう。

 同じように、点描画家スーラの代表作《化粧する女》も制作当時の姿をとどめている。誤った裏打ちのせいで絵の具がつぶれたり、洗浄のし過ぎで元々の色彩が損なわれてしまった絵画が多々あるが、この作品は過剰な処置がなされていない。小さな点描のタッチが絶妙に重なり合う絵肌は、今なお美しい。

 一口に修復といっても、当然作品によって異なる保存状態や材質を見極めたうえで処置を講じなければいけない。しかし、研究が進んでいなかった戦前においては機械的に処置されたケースがしばしばあった。

 出品作の一つ、ドガが油彩で厚紙に描いた《窓辺の女》は不用意にニスが塗られていて、背景の色調が茶褐色に暗く沈んでいる。美術館のスタッフに尋ねると、コレクションに入る前からこの色で、いつどの時点で誤った処置がなされたのか不明だという。(写真はスーラ《化粧する女》)

画家の息吹に触れる

 本来はもっと明るい色調だったはずである。今日では、絵画の修復はあくまでオリジナルを尊重し、必要最低限の処置にとどめておくのが大前提だ。

 美術史を専攻しながら、絵画の保存・修復の道を選んだのは、ダイレクトに作品とかかわりたいと思ったからである。作品と間近に向き合うと、作家の息吹に触れているような気になる。絵画の中の筆遣いはずばり、作家の息遣いともいえる。

 17日までで大阪・なんば高島屋での展覧会は終わるが、4月に入ると、京都高島屋に舞台を移し、5月まで催される。会期中も作品に問題が生じていないか定期的に検査する。すべての日程を終え、作品をロンドンに戻すまでまだまだ気が抜けない。(もり・なおよし=絵画修復家)

[98年3月4日=日本経済新聞]





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