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(下)快挙の陰の友情物語 ビーチバレー・相楽幸子さん
アトランタ五輪ビーチバレー女子2回戦で高橋有紀子選手と組みオーストラリアと対戦する相楽(当時は藤田)幸子さん(手前)〔共同〕
 今回は男女ともに6人制での出場を逃した日本バレーボール。一方、前回のアトランタ五輪から正式種目となったビーチバレーでは、高橋有紀子・佐伯美香と石坂有紀子・清家ちえの2組が出場を決めた。相楽(当時は藤田)幸子さんは88年のソウル五輪の6人制代表として初出場。96年のアトランタではビーチバレーに転じ高橋とコンビを組んで5位入賞を果たした。大健闘と称えられた快挙の陰にあった友情のドラマを、相楽さんに聞いた。(聞き手はマルチメディア編成部 斉藤直宏)

・ソウルではメダル失い批判受ける

 五輪は世界選手権やアジア大会といったほかの国際大会と比べても、違うものがある。どの大会に行っても日の丸を背負っていることに変わりはないが、五輪となると日本という国を代表してこの場に来られたのだという気持ちがより強くなるのに加え、それまでの苦楽の思い出がよぎり、大きなハードルを超えて出てきたんだという一種の感慨がある。開会式は2回体験しているが、スタジアムに入るときは鳥肌がたつような思いがした。

シドニー五輪では解説者として大会に”参加”する相楽さん
 ソウル五輪のときは中田久美さんがエースで、丸山(旧姓・江上)由美さんが結婚後復帰してチームに加わった。私は丸山さんにあこがれてバレー部に入ったので、彼女の復帰はとてもうれしかった。当時は大林素子さん、高橋さん、そして私が最年少。すごい人たちばかりで、足を引っ張ってはいけないと無我夢中だった。プレーだけに集中し、周りを見る余裕などなかったと思う。あのころ、日本バレーはメダルを取って当たり前という雰囲気があった。しかしメダルを失い(結果は4位)、かなり批判されたことを覚えている。

・アトランタで引退決意、最後の試合終わり2人で涙

 ビーチバレーに転じたアトランタでは、高校時代から実業団までずっとチームメートだった高橋さんとペアを組んだ。私はそのとき、ひざの故障を抱えていた。当時はマッサージ担当などついておらず、ドーピング問題があるのでうかつに薬も飲めない。そうしたことがあり、1日だけあった休みの日に、アトランタを最後に引退する気持ちを固めた。その日、高橋さんに「これで完全燃焼して終わりたい」と言ったら、彼女は納得してくれた。大会中にこんなことを言ったらけんかになるかもしれないとも思ったが、彼女は私の気持ちを受け入れてくれた。

アトランタ五輪でオーストラリアと対戦する相楽さん(向こう側右)〔共同〕
 その決断をしたことで、プレッシャーをプレッシャーに思わなくなった。それまで2人でやってきた3年間の成果を出せなかったらだめだし、やるしかないと思った。これが2人で出場する最後の大会になるので、1分でも長くビーチでプレーしたいという気持ちがあった。それがどこかでアトランタでの入賞につながったのだろう。

 予選の第1戦で負けたことは、5位入賞という成績を残すにはかえってプラスに働いた。敗者復活戦にまわって試合が重なりきつい面もあったが、勝ち進んでオーストラリアやブラジル、米国といった強豪と早い段階で対戦するより良かったといえる。最後の試合が終わったとき、2人で泣き崩れたのは忘れられない。

 今回は解説者としてシドニーに行くが、自分がそういう大会に出ていたんだと客観的に見られ、しかも高橋さんたちを応援する立場で参加できるというのは楽しみ。彼女たちには自分のとき以上の成績をとってもらいたい。周囲の人からは「自分のとき以上の成績をとってもらいたくないのではないか」といわれるが、そういう気持ちはまったくない。表彰台に上がって、日本の国旗をあげてほしい。メダルを掲げた彼女たちの姿を見ることができたら、私にとっても最高のプレゼントになるだろう。

[9月12日]

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