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山口衛里、遠回りの陸上人生・女子マラソン物語(16)
シドニー五輪でのゴールとなる五輪メーンスタジアムを視察(4月)〔共同〕
 山口衛里はマラソンにたどりつくまでに遠回りした。兵庫・西脇工高を卒業して、地元のダイエーに入社したが、1年ちょっとで部の存続が危うくなり、女子選手はばらばらに離散。山口は退社し、そのまま約半年間、母校に戻って後輩の男子高校生と一緒に走る日々が続いた。

 「つらかったでしょうねえ。でも言葉にも表情にも出てなかった。それとも私が怖くて言えんかったかな。毎日、自転車を20分ほどこいでグラウンドへ来てましたよ」。恩師、渡辺公二・西脇工高監督は振り返る。

 兵庫県滝野町で育った山口は、中学までバレーボール部の選手だった。陸上は高校から。渡辺監督を知る滝野中の校長先生が紹介したのがきっかけだった。

 初めて見た印象を渡辺監督は、「太ってるし、なんでバレーやねんと思った」と笑い飛ばす。将来五輪で走るような才能があるとは思いもしなかった。男子では駅伝の有力校だけに練習はきつい。それでも彼女は粘り強く、絶対にへばらなかったという。

 インターハイに出場経験はないが、地味にコツコツと練習するタイプで人望があった。2年生で女子キャプテンに選ばれ、全国高校女子駅伝の1、2回に出場。チームは28位、11位だった。「毎日、どついてました。キャプテンやから。言ってもわからん練習さぼる子の代わりです。でも、それでいじけたりする子じゃありません」。熱血監督が厚い信頼を寄せる、格好の怒られ役だった。

 1993年春、天満屋に入社する。半年の“浪人生活”中に渡辺監督が就職先を見つけてくれた。「1回、会社をやめたわけだし、次は失敗がないようにしっかりしたところを勧めた」。天満屋の当時のスタッフは佐々木精一郎、武冨豊、篠原太といずれも神戸製鋼出身。関西弁が通じるなじみやすい環境だった。

 初マラソンに選んでいた95年1月の大阪が阪神大震災で中止になるなど再チャレンジも遠回りは続く。やっと走れたマラソンは95年8月の北海道、2時間32分47秒の2位だった。

 レースは、マスコミ注目の有森裕子(リクルート)が復活の優勝を飾り、その騒ぎに山口の健闘はかき消されてしまった。有森は半年後、アトランタ五輪代表に。かつて思い出作りに一度くらい走れれば、と思っていたマラソンが、夢の五輪に続く道なのだと初めて身近に感じられた。

[2000年6月24日/日本経済新聞 朝刊]

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