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シンデレラ現る・女子マラソン物語(5)
91年東京国際マラソンで優勝し、笑顔をみせる谷川
 日本の女子長距離の有力選手の多くは実業団チームが育ててきた。だが、1980年代後半から、日本の女性ランナーの底辺拡大を象徴するように、市民ジョガーから育ったシンデレラも登場した。

 ソウル五輪代表の宮原美佐子は旭化成東京本社のOLで、社内レースで走っているところを宗兄弟に見いだされた。バルセロナ五輪代表を有森裕子(リクルート)と争った松野明美も、たまたま走った地元の大会で優勝したのが、熊本のニコニコドーに入社するきっかけだった。

 谷川真理はOLだった24歳の春、花見に出掛けた皇居で遭遇した女性ジョガーの姿に魅せられ、翌日から走り出した。5年後の91年東京で、翌年のバルセロナ五輪で女王となるエゴロワ(ソ連)を破る。日本選手が東京で優勝したのは83年大会の佐々木七恵(エスビー食品)に続き2人目の快挙だった。

 耳にピアス、胸には金のネックレス。谷川は女子陸上選手のイメージを変えた、といわれた。「おしゃれなランナー」と呼ばれるのを勲章だと思ってきた。

 当時、所属していた資生堂に入社したのも、銀座が本社というのが魅力だったという。そして市民ランナーが集う皇居の周回コースで強くなった。「1

周5キロの理想的なコース。そこで季節を感じながら走るのが好きだから」と、市民ランナーとしての自分を忘れなかった。

 一度だけ競技者としての可能性を追求したのがアトランタ五輪前。バルセロナで補欠となり一念発起した。94年パリマラソンを2時間27分55秒で優勝。95年は米国の高地合宿で調子を上げ、中島進コーチは「選考レースの一つ、8月の北海道ならピークがぴったりだった」と振り返る。

 だが、谷川は皇居のある“ホーム”の東京にこだわった。調整のずれがたたって10月にひざを故障。この年の北海道優勝は有森。谷川が狙った東京は、転倒からの逆転優勝で浅利純子(ダイハツ)が代表の座を射止め、夢は破れた。

 レースの高速化が進み、競技環境の整った実業団でなければトップクラスまでたどりつくのが難しくなったのか、今では谷川のような出世物語は聞かれなくなった。

 谷川とジョガー時代からコンビを組む中島コーチは「市民ランナーが参加できるクラブチームのような形が生まれ、育成環境が整えば流れが変わる」と話す。ポスト谷川の養成は、基盤の揺らぐ企業スポーツに続く新しいシステムの構築とつながっている。

[2000年6月13日/日本経済新聞 朝刊]

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