|
本田技研工業の四輪事業本部開発企画室に所属する黒田博史氏は多忙だ。小型RV(レクリエーショナル・ビークル)や軽自動車など、開発を担当する新型車が5つにのぼるうえ、車種ごとに企画から発売後の売れ行きチェックまでクルマの“一生”に責任を負う。行動範囲は、本社での社長参加の評価会から、三重県鈴鹿市の工場まで及ぶ。
1センチ巡る攻防
新車開発で最も大変なのが企画段階。労力の7割を占めるという。基本的なアイデアをもとに、マーケティング、要素技術、収益性など多角的な側面から開発計画を練り上げる。営業、生産、研究など10人程度いるメンバーが参加、1年以上の間、隔週に一回のペースで激論、会議はときに夜通しで続く。
その過程で欠かせないのが、鈴鹿工場との連携だ。9月に発売した小型RV「HR―V」の開発では、生産現場と車高1センチを巡る攻防があった。当初の設計に従うと車高が高すぎ、既存ラインに収まらない。10億円単位の追加投資が必要だった。ざん新なスタイルのモデルだけにデザイン陣の抵抗は激しかったが、コスト面から生産側の意見を優先した。
複数の車種を担当することで、部品共有化のアイデアが自然に生まれるという効果もある。黒田氏が担当する新規格の軽自動車や「HR―V」では、後部サスペンションの基本形式を共通化し、部品単価を1割程度抑えた。「タコツボに入りがちな個々のプロジェクトに横ぐしを刺す」(黒田氏)のも役目の一つだ。
開発に全権限
黒田氏の肩書は「RAD(レプリゼンタティブ・オブ・オートモティブ・ディベロップメント)」。この開発総責任者を軸とする体制が本田の“技術で儲(もう)ける仕組み”だ。選抜基準は、広範囲の分野をカバーできることと、クルマを作るという強い意志をもっていること。今のRAD5人の出身母体は営業、生産、研究と多岐にわたる。
RADは四輪事業本部の開発企画室に属し、他部門との兼務はない。「組織の長に任せると組織の色に染まりクルマが金太郎アメになってしまう」(伊藤博之開発企画室長)ためだ。創業時の本田宗一郎氏のように、“ミニ宗一郎”としてクルマ作りに専念する環境が与えられている。
RADの仕組みを育てたのは川本信彦前社長だ。90年6月に就任、バブル崩壊による業績低迷という逆風下にあって、大胆な経営改革を断行した。「技研貴族」と呼ばれた研究開発陣の独善を廃して、コスト意識をクルマ作りに持ち込んだ。「オデッセイ」「S―MX」「ステップワゴン」と、既存車種の車台を活用した低コストのクルマでヒットを連発し、RVブームの火付け役となった。
「HR―V」の1センチの攻防も以前の本田では考えられなかったことだ。作りたいクルマを作ることを最優先し、デザイン変更や新技術の採用に惜しみなく金を投じてきた。黒田氏は「工場の声を反映するようになったことが以前との最大の違い」と語る。
誕生から9年。RAD体制は熟成期を迎えつつある。先駆けとなった「オデッセイ」は従来のホンダイズムを否定する象徴として登場した。「マーケティングとコストダウンの勝利」(証券アナリスト)だった。しかし、「HR―V」はどちらかと言えば、デザイン重視のクルマ。来年発売予定のスポーツカー「S2000」も同じだ。「市場迎合ではなく、メーカーとしての提案を含んだクルマを売りたい」という新たな方向性をうかがわせる。
F1で意識改革
デザイン重視のクルマの復活は、低コストの開発の仕組みが根付いた自信の表れと言える。しかし、問題点も見え始めている。
RADが担当者を集め、そこで一気に決めてしまう手法は、先例にとらわれないことを狙っていた。ところが、現場がそれに慣れてきた今は、テーマを決める時期になると各部門内であらかじめ準備を整える現象が出始めた。システムとしての定着は「大敵である慣れを生む土壌になりかねない」(伊藤室長)。
本田は2000年をメドにフォーミュラワン(F1)レースへの復帰を模索している。再参戦にかける思いは過去の栄光への郷愁にとどまらない。今春の復帰宣言後に発足したF1プロジェクトでは、メンバーを社内公募した。研究所の技術者だけでなく、本社などからも若手を中心に22人集めた。
「レースは限られた空間と時間のなかで最高の結果が求められる厳しい世界。技術者への教育的効果が大きい」。同社の研究開発子会社、本田技術研究所の福井威夫社長は自らのレース経験を踏まえてこう語る。F1復帰に秘められたもう一つの狙いは、全社に競争意識を浸透させ、「慣れ」を壊し続けることにある。(特別取材班)

|