(1)中村育てた複線教育
 韓国に力負けしていた時代も今は昔。選手層が厚くなり、最近の日本代表は国際大会で韓国を上回る成績を残し続けている。躍進の陰には日本サッカー協会の選手育成、指導者養成プログラムなどの改革がある。日本サッカーの急成長の背景を探る。

 50メートル四方もない狭いグラウンド。横浜MのMF中村俊輔は横浜市戸塚区の住宅街に建つこの深園幼稚園でボールをけり始めた。

 幼稚園の体操教室で指導していた若林可夫(よしお)が園児のサッカー大会出場のためチームを作った。サッカー経験はないが、講習会があると聞けば足を運び、大学の先輩である帝京高(東京)の古沼貞雄監督らに教えを請うた。

 「単にサッカー選手を育てているわけではない。一つのことに取り組む姿勢を築いてあげたい」と若林はいう。中村に色々なポジションを経験させたのも、将来を考えてのことだった。

 小学4年時、日産SCの小学生担当コーチだった樋口靖洋(現横浜Mコーチ)は中村に目を引かれた。横浜Mジュニアユース(中学)の監督だった野地芳生も「ボールタッチ、センスの良さは既に表れていた」という。中村は横浜Mジュニアユースに進む。

 Jリーグの下部組織の主眼はプロ入りできる選手の育成にある。高いレベルの中に置かれ、体格で劣る中村は壁にぶつかった。

 だが、樋口は「中学年代には、自分の思い通りにできない厳しい環境を与えてあげる必要がある」と説く。欠点を認識させ、克服するすべを師弟がともに考える機会を作るためだ。中村は年長のチームに放り込まれ、洗礼を受けた。当時の身長は150センチ台。リーチのある選手を前にすると自分のプレーができず、レギュラーにはなれなかった。

 横浜Mユース(高校)へ上がるメンバーには、中村の名も入っていたという。しかし、自ら「高校のサッカー部でやってみたい」と申し出た。試合に出たい一心での決断だった。

 幸い、進学した桐光学園高(神奈川)も「卒業後、上のレベルで活躍できる選手を育てる」という指導方針だった。目先の結果を重んじる勝利至上主義の色合いは、高校サッカー界でも薄まっている。視野の広さにほれ込んだ佐熊裕和監督は「体はあとからできる」と線の細さに目をつぶり、中村を預かった。

 身長は高校1年で15センチも伸び、トレーニングルーム、フィジカルコーチ、メンタルコーチまでそろった環境で実も入ってきた。2年生からチームの中心となり、3年夏には「自分よりうまいやつはいない」と言えるほどになり、冬の全国高校選手権では準優勝に輝いた。そして“古巣”の横浜Mとプロ契約する。

 クラブスポーツと学校スポーツに複線化された育成現場で育った中村は、現在の日本サッカー界の象徴的存在だ。日本サッカー協会がこの10年間に進めてきた指導者の意識改革により、全国の指導者が日本の底上げ、選手の将来を考えた指導哲学を共有するようになった。中村と並ぶ逸材が次々と現れているのは決して偶然ではない。

=敬称略

(2000年9月26日/日本経済新聞 朝刊)


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