(8)仏W杯予選、友好・共存共栄の世紀へ
 思わぬ“アシスト”を得た試合だった。1997年11月1日、ソウルのオリンピックスタジアムの雰囲気はいつもの日韓戦とは違った。韓国サポーターが掲げたのは、「Let’s go to France together.(一緒にフランスに行こう)」の横断幕。DF井原正巳は「アウエーじゃないみたい。友好的なものを感じた」

 98年ワールドカップ(W杯)フランス大会アジア最終予選B組。同組1位で予選突破を決めていた韓国は、2002年W杯の共催仲間である日本の窮地を気遣う余裕があった。日本はホームの韓国戦(9月、東京)で逆転負けしたショックを引きずり、1勝1敗4引き分け(勝ち点7)でアラブ首長国連邦(同8)に次ぐ3位。2位に入って第3代表決定戦に進むには、残り2試合を全勝するしかない状況だった。

 予選途中の97年10月、加茂周監督が更迭され、コーチの岡田武史が昇格。岡田の狙い通り、序盤から果敢に前に出た日本は1分、DF相馬直樹のクロスをMF名波浩が決めて先制。37分にはFW呂比須ワグナーが加点した。韓国代表のMF柳想鉄は「あの試合の日本のプレスは特にきつかった」と今でも思う。

 2―0で完勝した勝因は開き直りの気持ちだった。相馬は韓国戦前の数日間に雰囲気の変化を感じた。「追い込まれて、やるしかないという空気になった。ボールを動かすイメージがチーム内でシンクロしてきて、いけるぞ、という気持ちになった」。これでよみがえった日本はカザフスタンに大勝して、第3代表決定戦でもイランを破り、初のW杯出場を決めた。

 岡田は韓国から帰国する時、出国審査の担当者からサインをねだられた。韓国側の意識の変化を、柏レイソルでプレーする29歳の柳は「日韓戦は絶対勝たなきゃいけない、という気持ちなのは、自分の世代が最後かな。97年のソウルの試合は韓国がW杯出場を決めてなかったら、違う結果だったと思うけど」。Jリーグに来た韓国人選手は延べ10人を超え、交流の幹は急激に太くなった。

 日韓戦の通算成績は、日本の11勝(うち2PK戦)35敗15分け。最近7年に限ると、3勝(うち1PK戦)3敗2分けと五分だ。

 「過去の日韓戦はサッカーなのか、ケンカなのか、分からない試合もあった。でもこれからは、勝負より、サッカーの中身を楽しむように変わるんじゃないかな」と柳は言う。互いを倒すのが大目標の時代から、世界に目を向けて刺激し合う関係に。芽生えつつある共存共栄ムードが、両国サッカーの発展をさらに後押しすることだろう。=おわり

 この連載は武智幸徳、吉田誠一、田中克二が担当した。

(2000年8月8日/日本経済新聞 朝刊)


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