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C. ネット社会部会

   「ネチズンの登場と新しい 民主主義社会―ネットワーク社会問題解決への世界協調」


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1998年2月23日〜2月25日


From: 藤原 宏高
Subject: [00152] Re:ネットワークと人権


弁護士 藤 原 宏 高です。
福冨様
水野様
 私は、表現の自由には、印刷物などの場合を考えると、表現物を販売する自由も含まれていると思います。
 ただし、表現の自由も一切制約を受けないわけではありませんから、必要最小限の制約には服することになります。
 問題にしたいのは、届け出制の妥当性です。私は憲法違反ではないかとの疑いを持っています。 

From: 山崎 一樹
Subject: [00153] Re:ネットワークと人権


かなり遅いレスで恐縮です。
From: 福冨 忠和
Subject: [00092] Re:Re:ネットワークと人権

ちょっとスレッドのテーマからはずれますが、一連の議論で思うのは、私含めて、こういう議論の場では、マクロなレベルに回収しすぎる傾向があるところです。細かいところまで踏み込まないので、どうしても世界観とか、思想とか、国家や法に関するそれぞれのスタンスのところでぶつかってしまい、大雑把なレベルで対立します。その結果、ディテイルを飛ばして「悪しきコンテントがあるから規制」という単純な方向に流れることを一番懸念します。
福富さんや高木さんの主張されるように、大ざっぱなマクロの議論ではなく、
detail
にこだわるべきであるというご意見には、一般論としては賛成ですが、私としてはそういう個別の問題は専門家の方々の研鑽におまかせして、こういう短期の議論の場合にはもう少し本質的な議論、つまりマクロの議論をした方がよろしいだろうと考えます。
かくいう私もかつては細かな事例の分析からこの問題の本質が掴めるのではないかと思った時期もあるのですが、今はそうは思っていません。私はこれでメシを食っているわけでもないので、detailにこだわるとかえって本質を見誤ると気がついたからです。:-)
参考までに、身近に昨年のイミダス(97年版)があれば、巻頭の特集に「ネットワーク社会における自由と規制とは」という、本スレッドとほぼ同じ文章を会津泉氏がまとめておられますので、そこでの私の意見をご覧下さい。もう1年半も前の議論なのですが、当時と同じで、福富さんのご意見や高木さんのご意見を伺っても、どうもなるほどと思えるところがないのですが、それが何故かがご理解頂けるかと思います。
高木さんが差別問題に関する事例を挙げておられますが、その他の事例をということですので、以前の知識の蓄積で恐縮ですがふたつの事例をご紹介してみます。
ひとつはネット上のhate propagandaの問題です。欧米ではそこそこ有名な事例なのでご存じの方もおられるでしょうが、ドイツ系カナダ人のアーネスト・ズンデルという人がやっているhorocaust denialのホームページです。「ホロコーストは存在しなかった」という主張をネット上でも行っているのですが、カナダの刑法ではhate propagandaは刑事罰の対象であり、サイトを立ち上げることが禁じられたため、「表現の自由」が無制限のアメリカのサイトで「表現の自由」を行使しているのです。
カナダは憲法で「表現の自由は法律の下に制限される」ことになっていますし、アメリカは憲法で「表現の自由は制限されない」ことになっていますので、両国の対応とも論理的には正しいものであると思われます。
それでは日本はどうかというと、「ホロコーストはなかった」という論文を掲載しただけで雑誌が廃刊に追い込まれてしまう。表現の自由を擁護すべきマスコミやジャーナリストや知識人がこぞって自らの首を締めてしまうという状況は全く非論理的なんですよね。論理的ではないので、欧米人にはこのような日本の状況を説明するのは誠に困難です。論理的な説明を可能とする最も好ましい方法は、表現の自由の規制を法律で明確に定めることであろうかと考えます。
逆に、表現の自由を無制限に認めるという立場に立つのであれば、例え見解に反対の場合であってもその見解を制限すべきではない。他の人権保護との競合があったとしても、その見解の発表の機会を制限をすることは許されないと考えなければならないでしょう。アメリカはこの点で徹底しています。徹底しているからこそ、反論のし甲斐があろうというものです :-)
ちなみに、最近のカナダのシンクタンクの調査では、インターネット上のhate siteは既に千を超えている状況であるということですが、カナダのISPは自主規制しているので、ごく一部の州を除いてはhate siteは存在しない。ところがアメリカは無制限の表現の自由があるのでhate siteの巣窟になっている、というのが調査結果として報告されています。
インターネットの三つの特色「つなぐ」、「超える」、「潜る」をある程度コントロールするためには、国家間の協力体制が不可欠ですが、「表現の自由」という思想上の問題となるとなかなか協力体制というのは難しいのが現状でしょう。しかし、問題が難しくなるのは偏に「アメリカ」という存在があるからだということもできるのではないかと思います。
もうひとつの事例は、そうは言っても国家間で協調できる分野もある、という事例です。カナダの治安当局では「プロジェクトP」と称してオンラインポルノの追放に力を入れているのですが、特にチャイルド・ポルノを中心にアメリカの治安当局と協力を取り、かなりの摘発件数を挙げています。カナダ刑法ではチャイルド・ポルノは制作、出版、販売、そして所有が全て犯罪行為であるとされています。アメリカはどうなっているのか知らないので、アメリカ在住の方に事情を伺いたいものですが、例えば、カナダ人がアメリカのポルノ業者からインターネット経由で刑法違反のポルノを入手する場合、事実関係の立証のために両国の治安当局が協調体制を取っているというわけです。
できるところからインターネット上の取り締まりを行うことは好ましい対応であると考えます。

From: 高木 寛
Subject: [00154] Re:ネットワークと人権


高木 寛です。
山崎さん、米国とカナダのhate siteのご紹介をありがとうございました。米国の憲法については日本に紹介される機会が多いのですが、カナダの憲法制度については、あまり知る機会がなかったので、参考になりました。少しdetailにこだわっている私としては、米国での人種差別のサイトがどうなっているのか知りたいと思っていました。イラク問題で国務長官に「人種差別主義者!」という罵声が飛んでいましたが、最大級の侮辱なんでしょう。長官も一瞬キッ!とした表情に変わっていたのがよく分かりました。そういう国で差別的サイトがどのように扱われているかという点に興味があったのです。
それと、すいません手元に97年版のイミダスがありませんので山崎さんのお書きになったものを見ることができません。ただ、私がこの会議に臨むときに考えていたのは、山崎さんともおそらく福富さんとも違います。
どういうことかというと、そろそろマクロ的あるいは理念的なインターネット論から離れて具体的制度や個々の利害の調整に重点を置いた議論が必要なのではないかと考えていました。山崎さんが昨年のテレビ討論でのインターネット教条主義者との議論にうんざりされたと書いていましたが、私はテレビ討論だけでなく、当時他の人が書いたものなどで規制派と反規制派の激しい対立を見ていたのですが、その中で両者の強引な論法や人権に関する知識の不足だけではなく、議論が大雑把なことに対して少し苛立ちを感じていました。もちろん、理念的な議論は大事だとは思いますし、私も興味はあるのですが、現に日本でインターネットが大ブレークを起こして何年もたちますから、規制は可か否かという二者択一的な議論をいつまでも続けていても仕方がないでしょう。むろん、新しい意見も出てくるとは思いますが、あらかた出尽くした感があります。
規制派VS反規制派の対立はあっても良いのですが、現在はすでにそこに登場した理念を念頭に置いたうえで具体的な制度なり、社会のシステムとして展開していく時期でしょう。つまり「表現の自由は絶対に制限できない」あるいは「法律によれば制限できる」というような、憲法の世界で昭和2・30年代に行われていた議論ではなく、真に規制が必要か、それはどのようなケースか、規制するとしたらどの程度のあるいはどのような規制方法が合憲的かつ社会的システムとしてもうまくいくかという点にウェイトを移して行くべきじゃないかと思うのです。そして今は、その場合にどのような利益を考量して行くべきかという視点でdetailを考えて行くべきだと思っています。人権の中にも色々種類があって、表現の自由という神経質な基本的人権を扱う以上はどうしても緻密な、あるいはこまかな作業にならざるを得ないのです。
こういう立場は誤解を受けやすいし、両方から石が飛んできてしまうのですが、同じ議論を繰り返しているつもりはないし、それほどの時間的余裕もないと思うのですがいかがでしょうか。

From: 福冨 忠和
Subject: [00155] Re:ネットワークと人権


福冨です。
ちょっと散漫なレスになりますが、
ズンデル・ケースなどは、たしかに難しい問題ですが、例の廃刊はもともとあまり販売部数が伸びていなかったのでいい機会だった、という説もあり、一概に圧力に屈したといえないという説が出版会では強いようです。
実際には同様の論文は他の媒体には掲載されています。
またホロコースト問題だと、いわば日本人には他人事なので、はっきりと「表現の自由」をめぐるケースだとみな明言しますが、たとえば南京大虐殺だと日本人はそういうスタンスで対応をとりません。
たとえば「できるところからインターネット上の取り締まりを行うことは好ましい対応である」とおっしゃる場合、「南京大虐殺はなかった、教科書記述には間違いがある」というスタンスなのか、その逆なのか、で、全く見え方が変わりますね。たとえば日本の文部省は「偏向教科書をだだすべき」という主張を、別に取り締まってはいませんし、ズンデルのような主張のものも取り締まってはいません。
それはよくないことなんでしょうか、いいことなんでしょうか。
チャイルドポルノについては、さほど詳しく考えたことがないのですが、先にも述べましたように、まず各国の基準の差を理解する必要があるように思えています。
たとえば英国ではそういうものを持っているだけで違法ですから、よく友人の密告で捕まる人がいますね。日本では平気でテレビ放映される子どもの入浴シーンだって、放映できない国はたくさんあります。
また「子どもの権利宣言条約」などから考えてみると、チャイルドポルノの禁止が、子どもが性情報にアクセスしたり、子どもが性行為をしたりすることの禁止とは別のことだとも思えます。

From: 福冨 忠和
Subject: [00156] Re:ネットワークと人権/風営法改正案


福冨です。
#体調悪いです(^^;)
よこから申し訳ないのですが、
From: 水野 隆一
Subject: [00146] Re:ネットワークと人権/風営法改正案

すいません。どうも噛み合いませんね。私は、有料で提供する画像の表現内容に萎縮効果が発生することが『表現の自由』に抵触するということが理解できていません。無料なら問題ないわけですよね。『表現の自由』とは、表現物を発表する自由であり、販売する自由は別物だと思っているのですが。
表現の自由は、先にもありましたように、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という21条から考えると、基本的には販売する自由を含むと思いますけど、どうなのでしょうか。
藤原さんのおっしゃる憲法違反というのは、合理性がある批判だと思ったのですが。

From: 高木 寛
Subject: [00157] Re:ネットワークと人権/風営法改正案


高木 寛です。
福富さんに続いて横から少し書きます。
表現の自由の萎縮的効果というのは、曖昧な基準で制限を加えると規制目的ではない正当な表現活動も萎縮してしまい、実際上制限されたと同じ効果が発生するため違憲の根拠とされます。例えば、大手出版社の週刊誌などと同様のレベルのオンラインマガジンが発行された場合を考えてみます。そこに週刊誌と同等のヌードグラビアを掲載するのはおそらくこの法律の射程外でしょう。ところが、発行する側は届け出がしてないからと掲載をやめてしまうことが考えられます。また、普段はヌードを扱っていない有料サイトが、記事の必要上ヌードを掲載したくても風営法の届けがないからと諦めてしまうことも考えられます。
このようにその法律が規制の対象としていない正当な権利を持っている者までが、いわばちぢこまってしまうように萎縮して正当な権利を行使できなくなってしまうことを萎縮的効果と言い、表現の自由を侵害し違憲であるとされています。したがって、それが有料かどうかということとはあまり関係ないと思います。
CDAの最高裁判決のベースには、青少年がこのようなサイトを見るかどうかは家庭教育の範疇だという考え方があるのではないかと感じました。判決の中に「親が見せても良いという場合」「親がカレッジに入った子供にメールでバースコントロールを教えること」までも規制することになるとありました。この風営法とは別のことになってしまいますが、猥褻に至らない画像を見せるかは、家庭教育に任せて良いという一般的な認識があるか疑問なわが国では、同列に考えてはいけないのかな? という感じはします。しかし、だからと言って正当な権利が侵害されるのはまずいと思います。

From: 山崎 一樹
Subject: [00158] Re:ネットワークと人権/風営法改正案


From: 福冨 忠和
Subject: [00156] Re:ネットワークと人権/風営法改正案

よこから申し訳ないのですが、
全く時間的余裕がなかったもので、私もさらに横からのツッコミで申し訳ないのですが :-)
From: 福冨 忠和
Subject: [00156] Re:ネットワークと人権/風営法改正案

表現の自由は、先にもありましたように、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という21条から考えると、基本的には販売する自由を含むと思いますけど、どうなのでしょうか。
この解釈はちょっと無理があるんじゃないかと思いますが。「販売する自由」なんてどこにも書いていないのですから、基本的には含まれないと理解すべきものなのではないでしょうか。仮にそう解釈するのであれば合理的な理由が必要でしょうが、これといった理由があるのでしょうか。
From: 福冨 忠和
Subject: [00156] Re:ネットワークと人権/風営法改正案

藤原さんのおっしゃる憲法違反というのは、合理性がある批判だと思ったのですが。
私も福富さんと同様、インターネット利用のピンクチラシを風営法による規制を拙速で行うことには反対です。
しかし、その理由は全く福富さんとは異なります。同床異夢なんですな、これが。私が拙速を批判する理由は、アメリカのCDA一件の二の舞にならないよう、アンチ規制派のコアリションが結成されることをさけるためには拙速は禁物だ、ということです。
誠に簡単に福富さんは藤原さんの主張に同意されておりますが、これまでのお二人の主張を比べると、これは将に同床異夢ではないかと心配します。
私の理解では、藤原さんのご意見は「本件は規制の必要がある事例だけれども、規制の内容と立法過程に難がある」ということでないかと受け取っていますが、藤原さん、違うでしょうか?
また、福富さんのご意見は「本件はそもそも今の法律だけで十分な対応ができる。新たな規制は必要がない」ということなのではないかと受け取りますが、この受け取り方は違っておりますか、福富さん?
ひょっとするとこのような私のおふたりの見解の違いの理解は間違っているかも知れませんが、しかし、同じ「表現の自由の規制は慎重に行うべきである」という考え方にも、かなりの幅があることは間違いないところですので、立法の責の立場にある方々には是非このような考え方の違いを認識してもらい、拙速は避けるようにお願いしたいものです。
もうひとつ、できれば法律の専門家の方に伺っておきたいのですが、「表現の自由」は日本の今の憲法の下では無制限に保証されるものなのでしょうか?
アメリカの場合は無制限の保証ですよね。しかし、世界的に見れば先進国の中においてすら表現の自由は法律の制限下に保証されている国の方が圧倒的に多いのが現状ではないでしょうか。
日本の場合はどうもこの点がはっきりしていないのではないかというのが、心配な点のひとつです。
そしてもうひとつの心配が、「ネットワークと人権」を高らかに主張する人々は、どうやら「表現の自由はネットワーク上では無制限に保証されるべきである」からさらに進んで、「ネットワーク上での人権保証を現実社会にも広く流布すべきである」とお考えなのではないか、という疑念です。今回のフォーラムでのいろいろなご意見を伺っていますと、ますます心配になって参りました :-)

From: 福冨 忠和
Subject: [00159] Re:ネットワークと人権/風営法改正案


From: 山崎 一樹
Subject: [00158] Re:ネットワークと人権/風営法改正案

誠に簡単に福富さんは藤原さんの主張に同意されておりますが、これまでのお二人の主張を比べると、これは将に同床異夢ではないかと心配します。
私の理解では、藤原さんのご意見は「本件は規制の必要がある事例だけれども、規制の内容と立法過程に難がある」ということでないかと受け取っていますが、藤原さん、違うでしょうか?
また、福富さんのご意見は「本件はそもそも今の法律だけで十分な対応ができる。新たな規制は必要がない」ということなのではないかと受け取りますが、この受け取り方は違っておりますか、福富さん?
これはその通りだと思いますが、法律レベルでのお話でしたので、素人ながらそのレベルに限定して意見を挟ませていただきました。それ以上の他意はありません。

From: 水野 隆一
Subject: [00160] Re:ネットワークと人権/風営法改正案


藤原様、福富様、山崎様、皆様
水野です。
From: 山崎 一樹
Subject: [00158] Re:ネットワークと人権/風営法改正案

私の理解では、藤原さんのご意見は「本件は規制の必要がある事例だけれども、規制の内容と立法過程に難がある」ということでないかと受け取っていますが、藤原さん、違うでしょうか?
藤原さんの先のご返答で、なんとなく理解しました。もし、この山崎さんの指摘どおりであれば、私も同じ立場です。ただ、規制内容として届け出制が妥当か、過剰か、ということは、よく解らないなあ、と感じているわけです。
法の均衡の問題は別として、届出制が過剰規制であるとすれば、どのような規制が妥当かを議論すべきなんでしょうね。すでに藤原さんはいくつか提案されていますが。
いずれにせよ、山崎さんのおっしゃる現法案が拙速であるということは賛成します。
From: 山崎 一樹
Subject: [00158] Re:ネットワークと人権/風営法改正案

そしてもうひとつの心配が、「ネットワークと人権」を高らかに主張する人々は、どうやら「表現の自由はネットワーク上では無制限に保証されるべきである」からさらに進んで、「ネットワーク上での人権保証を現実社会にも広く流布すべきである」とお考えなのではないか、という疑念です。今回のフォーラムでのいろいろなご意見を伺っていますと、ますます心配になって参りました :-)
山崎さんが、このフォーラムの議論のどこからこのように理解されたのかは解りませんが、『ネットワーク上の無制限の自由』派には、私も危惧を持っております。ネットワークでの情報発信の容易さから、ネットワークは少数意見が過大に評価されやすい傾向にあります。したがって、ネットワーク上では意見の集約が難しく、品質的にアナーキーになり易い傾向があると思っています(これは、佐倉さんと私の議論のテーマ)。しかし、それは品質的な側面であり、現行法の規制などと照らした場合、アナーキーは許されないと思っております。逆に、ネットワーク上のアナーキストには厳格に対処しないとネットワーク社会の発展は望めないと感じています。

From: 山崎 一樹
Subject: [00161] 日本人の主体性


仕事が忙しくて自宅のメールを見ていなかったら、もうこのフォーラムも終わり間近のようで、終わらないうちに言いたいことをちょっと(長いですが)言わせてもらっておきます。
モデレーターの杉井さんには申し訳ないんですが、私はネットワークと社会を考える上で最も重要であると考えるのは、電子ネットワークが新しい民主主義を生み出すかとか、新しい市民生活を生み出すかとか、新らしい権利を生み出すか、ということではありません。これらのテーマに私なりに答えるとすれば、それは「ネットワーク上で新しく生まれるものなど何もない。全て現在の現実社会にあるものばかりである」ということになります。「ネットワーク上の規制は是か否か」というテーマも、実はそれほど大した問題ではなくて、時間が解決する程度の問題に過ぎないあろうと予想しております。
それでは最も重要なのは何かというと、私はそれは「電子ネットワークは「多様性の承認」に成功するだろうか」ということであると考えます。「日本人の主体性」というテーマは若干これに関係があります。そこで、半年ほど前の日本への帰国直前にに書きましたものを次に挙げさせて頂きます。
==============================
私がカナダに来て一番最初の疑問、そして今でも疑問なのが、「カナダとアメリカとは一体どこが違うのだろうか?」、つまり、「カナダのidentityとは何ぞや?」ということです。実はカナダ人自身が建国以来ずっとこの問題を考え続けているという難儀な人々なのですが、一番てっとり早くこの問題の核心に触れる方法は、いろいろなカナダ人に聞いてみたところ、ピエール・バートンという作家の歴史小説を読むことのようです。
この人は、日本で言えば司馬遼太郎のような「国民作家」的な位置づけにあるようですが、彼の出世作に「クロンダイク」という歴史小説があります。副題が「the LastGreat Gold Rush: 1896-1899」とあるとおり、ちょうど今から百年前、カナダ北西部のアラスカ国境沿いのユーコン・テリトリーで「最後のゴールドラッシュ」があった、それが舞台となっています。
アメリカの初期のエデュテインメント・ソフトに「ユーコン・トレイル」というのがありますけれども、アメリカ人にとってはまさに「最後のゴールドラッシュ」でしかなかったこの出来事の中に、実はアメリカとカナダの根本的な違いが隠されている、というのがこの小説のモチーフです。
カリフォルニアとアラスカからやってきたアメリカ人は、西部開拓と同様、自分たちでタウン・ミーティングを行い、シュリフを決定し、ガンを持つ自由を確保して自らを統治しようとする。ところが場所はカナダで、カナダのやり方はガンを持つ自由は認めない、政府が治安組織を決定するという案配で、ここに一攫千金を狙うアメリカ人とカナダ流を貫こうとするカナダ人との間に様々な葛藤が生じる、という話の筋立てになっています。
ちなみに全くの偶然ですが、この物語にはバイ・プレーヤーとしてWilliam Gates、つまりビル・ゲイツという人物も登場します。一攫千金を夢見る荒くれ男たちの泊まる宿屋の主人兼彼らが日頃のうさを晴らすダンス・ホールの主人として。そしてこの物語の始まりは、その名も「the golden highway」から始まるのです。
私はこの「クロンダイク・ゴールドラッシュ」の話は、百年後の今、まさに繰り広げられている「インターネット・ゴールドラッシュ」にもそのまま当てはまる「アメリカとカナダの違い」を見ることができるのではないかと思います。
バートン氏は別の作品でこうも言っています。
「カナダの王立騎馬警察にとっては、「自由(liberty)」は二の次で、まずは「秩序(order)」が重要だったし、「幸福の追求(pursuit of happiness)」よりも「平和と安全の追求(pursuit of peace and security)」の方が重要だった。アメリカ人はこれに不満を持つだろうが、カナダ人はそれを欲してきたし、今でも欲しているのだ。」
アメリカの憲法の根幹は「life, liberty, pursuit of happiness」ですし、カナダの憲法の根幹は「peace, order, good government」です。憲法 (constitution)というのは国の成り立ち(「この国のかたち」)を表すものですから、identityを議論する際には必ずここに戻ってくるハズです。では、日本の憲法ではどうなのか。インターネット時代に新しい世界の構築に日本人が参加する何物を日本の憲法は持っているだろうか、と考えてみたりします。
また、以前、公文先生から、「マイケル・ハウベン氏のご両親が「アメリカもカナダのcommunityを見習わなければならない」という意見を持っておられる」という話を伺った覚えがありますが、どうも私には「individual rightsとgroup rightsのどちらに重点を置くか」という違い程度ではアメリカとカナダの違いは説明できないのではないか、と考えてみたりもします。
さらに、マイケル・ハウベン氏とは昨年のモントリオールでのINETの時ちょっと立ち話をしただけではあるのですが、彼は「インターネットで違いを学ぶ(learn)ことができる」と言っていたのに対して、私は「「学ぶ」ということと「理解する(recognize)」こととはちょっと違うのではないか」と言った覚えがあります。今にして思えば、netizenという普遍的な存在がインターネットによって出現するのではなく、インターネットの登場により、新たにnetizen-Americanやnetizen-Japaneseやnetizen-Canadianが出現するだけの話であって、より重要なのは「学ぶ」ことを通じてこれらの間の違いを「理解する」ことになるのではないか、と言った方がよかったかなあ、と考えたりもします。
いみじくも村上先生は「反古典の政治経済学」の最後に「21世紀への鍵は互いに理解し合うことである」と言われていましたが、この「相互理解」というのは、チャールズ・テイラーが言うところの「承認(recognition)」に近いのではないかと思います。しかし、村上先生も言われているとおりで、これは途方もなく困難な作業でしょう。例えば私の3年間のカナダでの生活から例を取れば、チャールズ・テイラーの思想上の格闘は、現実社会でのケベック独立議論には殆ど影響力がないことが挙げられるでしょう。しからばインターネットはこの「相互理解」にはどういう作用を及ぼすのでしょうか。それを考えると私には残念ながら想像もつきません。
しかしちょっと自信を持つ経験はあります。実は上記の「カナダ王立騎馬警察」の肖像権は何とディズニーが持っているのです。カナダの真髄がアメリカン・ウエイの象徴に牛耳られている。こんな調子でインターネットが進めば、カナダのidentityなんてのは風前の灯火ではないか、と先日ニュー・ブランズウィック州に行った時に情報ハイウエイ担当の州政府の人に聞いたのですが、彼が言うには「お前は日本人のくせにどうしてそんな心配をするのか。それは確かにカナダ人の中にもアメリカに憧れる連中はいるけれども、多くのカナダ人はアメリカ人になりたいとは思ってはいない。
だからお前が心配しなくとも大丈夫だよ。」と。
ナルホド、日本人も自信を持ってこう言えるようにならなくてはイカンな、というところで、私のカナダでの生活はオシマイということになりそうです。
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冗長な文章で恐縮でしたですが、私は現在でもインターネット上での最大の課題はそれが「多様性の承認」に成功するだろうか」ということであろうと思っています。
ちょうど福富さんも同じ様なことを言っておられたように記憶しますが、しかし、存外、「インターネットによって相手を理解する」というのは困難な作業ではないでしょうか。違いを「知る」、「学ぶ」までは何とかなるかもしれないですが、さらに進んで違いを「理解する」となると、これはかなり難しい。「インターネットなら、出来る」と考えるのは、単なる「幻想」であり、単なる「傲慢」でしかないのではなかろうかと思います。
今回の会議は「世界情報通信サミット」という名前でありながら、当初予想したとおり、どうもアメリカの話題が多いような気がしましたもので、以上発言させて頂きました。

From: 山崎 一樹
Subject: [00162] Re:日本人の主体性


福冨です。
カナダのidentityに絡んでの多様性の承認にかんするポスト、読ませていただきました。詳細は語れませんが、一言だけ。
From: 山崎 一樹
Subject: [00162] 日本人の主体性

冗長な文章で恐縮でしたですが、私は現在でもインターネット上での最大の課題は「それが「多様性の承認」に成功するだろうか」ということであろうと思っています。
ちょうど福富さんも同じ様なことを言っておられたように記憶しますが、しかし、存外、「インターネットによって相手を理解する」というのは困難な作業ではないでしょうか。違いを「知る」、「学ぶ」までは何とかなるかもしれないですが、さらに進んで違いを「理解する」となると、これはかなり難しい。「インターネットなら、出来る」と考えるのは、単なる「幻想」であり、単なる「傲慢」でしかないのではなかろうかと思います。
私の場合は、この点が逆でして、もしインターネットがなければ、たとえば山崎さんと私も会うチャンスはほとんどありませんでしょうし、こうして意見を交わすこともないのではないかと思います。インターネットは、理解はともかく、承認のきっかけには成りうると思っています。そういう機会はないほうがいい、という議論もあるかと思いますが、しかし機会が増える方向にすすんでいるのが現実です。

From: 飯坂 譲二
Subject: [00163] Re:日本人の主体性


飯坂 譲二
From: 田中 辰雄
Subject: [00141] 日本人の主体性

アメリカ型の「主体性」あるいは自己責任原則を取り入れなければ淘汰されるだろうという趣旨のように読めます。それゆえに社会が持っている遺伝子のようなもの(ある人は文化子と言う)を変えなければならないと。したがって
From: 飯坂 譲二
Subject: [00139] Re:日本人の主体性

遺伝子を全部赤い髪をし、青い眼をもつ遺伝子に変えようという議論とは、別だと思います。
とありますが、飯坂さんの主張ではやはり、社会の遺伝子のようなもの(文化)を変えましょうという話になっているのではありませんか。
日本が鎖国をし、世界の政治、経済、技術そのもろもろと関係なく生きていけるのならば、敢えて進歩を目指さなくてもよいでしょう。
遅かれ早かれ、すき嫌いは別として、すべての面で世界化が進んでいる環境の変化にどう対応して行くかが問題だと思います。
From: 田中 辰雄
Subject: [00141] 日本人の主体性

もっとも「交配」ですから、中間型になることもあって、赤い髪と黒い髪の中間ということになるのかもしれませんが、いずれにせよ社会の遺伝子のようなもの(文化)を変えましょうという話になっているのは同じ事のように思えます。
日本は今まで独自の文化を0から創造したものは(カラオケを別にして、でも、カラオケ以前に伴奏だけが入っているミュージック・マイナス1というレコードがアメリカにはありましたが)皆無に等しく、大体移入した文化を日本の風土に合わせて改良したもの大半ではないでしょうか。
From: 田中 辰雄
Subject: [00141] 日本人の主体性

自己責任原則を持たせようというのは、言ってみれば人々の価値観や行動規範の変更ですので、当然と言えば当然です。
回りくどい話になりましたが、問題なのは、「なぜ自己責任原則を持たせる必要があるのか」、です。杉井さんの言うとおり、これはなかば前提として議論されていたようですが、答えは必要と思われます。飯坂さんのお答えは、そうしないと社会が(あるいは個人が)淘汰されるというお答えと推測しました。
その通りです。
今まで、日本の国民が困るとお上は何か指定くれるのが当たり前でした。銀行が倒産しても、お上が救ってくれました。
でも2002年以後は、預金の一部しか還せません。
年金もそうです。若い世代にたよる日本の年金制度は、若年層が減った時代にはパンクしてしまいます。
日本の経済力は2020年まで続くのでしょうか?
日経新聞の「2020年の警鐘」はベストセラーになった筈です。
日経産業新聞はいま「強くなれ、製造業」という特集をやっています。裏を返せば、強かった筈の日本の製造業にかげりが出てきた事です。
情報の世界化は、ある意味で技術転移が速くなることを意味します。
日本が強かったとされる自動車産業の看板方式や生産管理システムはもうデトロイドでは当たり前の技術になっています。
「Noといえる日本」という本を出し「日本はもはやアメリカから学ぶべき物はない」と豪語した政治家がいましたが、いま、日本から生産管理技術を学ぶべきものはないといった風潮がアメリカにはあるように聞いています。
半導体の市場が低迷し、工場閉鎖や操短が行われている理由の一つは、日本の工場に匹敵しる半導体の生産工場が増え、価格競争に入ってしまったこともあります。
世界の変化にどう対応するか、対応できるようにするにはどうしなければならないか、対応する必要がないならば、また対応しないとすれば、何が起きるか予想しなっとくずくで21世紀を迎えていただきたいものと思います。
From: 田中 辰雄
Subject: [00141] 日本人の主体性

他の方はどうお考えでしょうか。象徴的な例で言えば、信用金庫に預けて泣き崩れたというおばあさんにもリスク計算をさせようと考える理由は何でしょうか。
以下蛇足です
 #ネット社会に限っても同様の議論が可能です。ジャンクメールも個人情報保護も明瞭な犯罪行為以外はかなり自己の技術と努力で防げます。ですから自己責任原則を最上位の原理にすると、政府の規制は最低でよいことになります。これは歴史的に言うと夜警国家観への回帰に他なりませんが、夜警国家への批判もマルクス主義から福祉国家論までたくさんの蓄積があります。したがって、いま、自己責任原則を主張するなら、その理由までつめておく必要があります。そうしないと、「泣き崩れるおばあさん」の報道に簡単に足をすくわれることになるでしょう。 もう少し具体的に言えば、[00129]冷たいようですが、人間の社会も適者生存が存在しているような気がします。
 と言えば、おそらく「そのような冷たさを克服するのが人間だ」と言う反論が来るでしょう。小池さんの言を使えば、「ダメな社員が辞めないように終業後、酒を一緒に飲んであげる管理職に人望が集まる」社会の方がよい社会ではないかという反論です。
このようなことが続けられ、会社が永遠に存在できるならそれも結構です。
今企業が悩んでいるのは、会社そのものの存続が懸かっているのではないでしょうか。ある日突然会社がつぶれる公算が多いのではないでしょうか。
From: 田中 辰雄
Subject: [00141] 日本人の主体性

自己責任原則を主張するならこのような反論をねじ伏せるだけの論理を用意する必要があります。そうでなければ、自己責任原則の合唱は、強者の論理と言われてもしかたがないでしょう。
私の世代は、戦争を経験しています。私も空襲に襲われ逃げた経験もあります。
戦後の食料難の時代に人間がどんな行動をとるか眼のあたりにしています。
大半の人間が極限の状態になったときどんな行動をするか、理屈ではなく生きたいという生存本能が優先します。
理屈通りに行動できたのは、ごく一部の聖職者だけです。
日本は、ベトナム難民をどれだけ受け入れたのでしょうか?何人アフリカの難民を受け入れたのでしょうか。この意味では、北米のほうがどれだけ弱者に手を差し伸べていると思いますし、日本の方が弱者排除をしていると思います。身体障害者などへの社会設備やシステムの程度は、北米からみると日本は先進国とは思えません。
先進国の人口の伸びと開発途上国の人口の伸び率を大きく違います。
世界の扶養家族の人口が大きくなっていく今日、いつまで、いま享受している生活レベルを下げずに、何人までの扶養家族を養えるのでしょうか。

From: 飯坂 譲二
Subject: [00164] Re:日本人の主体性


飯坂 譲二
From: 杉井 鏡生
Subject: [00140] 日本人の主体性

[日本人の主体性]
新たに、小池さんから「日米は異質な社会システムなので、従来の日本型社会システム下でアメリカ流の主体性を望む必要はない」という大胆かつ興味深い問題提起をいただきました。
> 小池さんのご意見は、これまでの論点であった、(小池さんの言わ興味深い論点ですので、賛成・反対を含めて、みなさまのご意見を伺えればと思います。
私は、第一原理として、環境の変化に対応するには「適者生存」をもうしあげました。私の議論の根底には、「最適化」の手順をどうするかにあります。
生物にしろ、社会、政治にしろ、生産管理にしろ、選択は束縛・制約条件のもとで、最大の効果が得られるにしている筈です。
第一原理は、前に申し上げましたが適者生存、最大利益、最大効果が選択基準でこれに逆らう気持ちはさらさらありません。この原理がいろいろ物議を醸し出しているようなので、第2原理をお話します。
第二原理は、ちょと分かりにくいかもしれませんが、弱者は排除してはならないという事です。
二子山を描いてみてください。一方はなだらかだけど富士山のように高い山、もうひとつは傾斜が急ではあるが低い山を連想してください。
そして、この両方の山に雲が懸かっていてどちらが高いか麓からは分からないとします。
5人で一番高い山を登りたいとします。(一番高い山に到達するのが最適化とします)山間で、3人が傾斜の険しい山をさし、「傾斜がきついから、この山の方が高い」いって登り始めますが、あとの二人は反対の山のほうが高いように思い「こっちの方が高いのではないか」と反対します。
しかし、三人は、「5人のうち3人が傾斜の大きいほうが高いと判断したのだから、みんなついてこいよ、それが民主主義だから」といって反対方向に行きかけた人を呼び戻します。
反対方向に行きかけた一人は、「みんながあっちにいくのだから、きっとそうに違いない」と思って、自分の思いとは別に、3人に合流し、4人チームになって登りはじめます。反対の方向が高いと信じた人を、「あれは仲間はずれだから、もうチームの一員とするのはやめよう」ということになります。
多分私自身でしょう。
すなわち、少数なり、弱者なりを切り捨てるのです。これがいままでの日本社会で、決して弱者が得をするようにはなっていない筈です。
この方式に従う限り、4人チームは、小さいほうの山に登ることが出来るだけです。(最適化問題では、局所的な最大に到達しただけです)北米、とくに米国は、反対方向に行った人を切り離さず自由に泳がせます。
そして雲がはれ、どちらが高いかはっきりした時点で、高い方の道をみんなが追い求めて、最終的には最高峰を極める事ができるようになっています。
すなわち、チームに異端者や弱者を含めていられればこそ、本当の最高峰に到達できるわけです。
もう一つ面白いことは、単純な適者生存原理を適用すると、初期段階の勝者が常に勝者になってしまい、全ては初期の勝者の手に入ってしまいます。
しかし、マイナーを混合する事によって、頂点にいたるまでの時間や全体の得点はこの方が大きくなることがこの分野で証明されています。
日本な長い間、官僚を中心とするリーダ号令のもとに、低い方の山に登ったのではないでしょうか。
だれか有名な人が行っていましたが、「現在に不満のない人は現状維持をとなえ、現在に不満の人は、改革をもとめる」現在の不満のない人でも、次世代のために、改革をもとめる人間もいることも確かです。

From: 飯坂 譲二
Subject: [00165] Re:日本人の主体性


飯坂 譲二
本当は、今日中に出さなければいけない書類作りに追われているのですが・・・
From: 末光 美恵
Subject: [00142] 日本人の主体性

おばあさんが生きて来た時代背景が影響しているということです。子供の頃から他人の言うことには必ず根拠や裏付けを求める、自分で見て判断するという生活習慣があれば、年を取ってから騙されることもないだろうということです。日本もそういう社会の文化にしようということです。
海外旅行を経験することによって自分のかばんをしっかり持つようになりました。これも日本との安全性の違い。日本は安全で良い国ですが、おばあさんがリスクを負う国であります。
私は教育にも片足をつっこんでいますが、教育方針は「自分で考え、自分で判断し、自分で行動する」です。情報にしろ、環境にしろ誰かが与えてくれるものではないということと、人から聞いた情報と、自分の目で見て経験して得た情報とは区別することです。
強者の論理といわれればそうなんでしょうか。
社員の立場では、組織や上司に環境を求めるだけではいけません。与えられた環境の中で最大限の自己の能力を発揮して仕事の成果を出すべきです。組織や上司は社員の能力に関係なく仕事の成果を最大限にするような環境をつくるべきです。
賛成です。
この意味で私事になりますが、私は自分の人生を豊かに送れていると思っています。一介のサラリーマン上がりがよくも外国の国家公務員として(国籍も変えずに)やとわれ、家族を養え、還暦過ぎまで首にもならず、・・・・
最大限、与えられた環境の中かで仕事の成果を出してきたとは思いますが、同時にこれが出来る環境と人的環境に恵まれた事も事実です。
From: 末光 美恵
Subject: [00142] 日本人の主体性

阪神大震災から3年。分断された高速道路などは驚く程早期に復旧しましたが、仮設住宅に暮らす人々には個人の力で復旧せよと日本政府も言っているではありませんか。(関西に住んでるとこれはひどいと思いますよ。信用金庫に騙された おばあさんは自己の責任ですが、震災は自己の責任ではありませんから。)
そのとおりですね。
政府の役割のおきな一つに、互助を必要とするときのために税金をとっている筈です。

From: 小池 良次
Subject: [00166] Re:日本人の主体性


小池です。
ちょっと忙しくている間に、回答するチャンスを失ってしまいました。
なんだか真抜けてますが....
From: 杉井 鏡生
Subject: [00140] Re:日本人の主体性

杉井鏡生です。
(略)
半分冗談の余談ですが、よく言われるように日本人に横並び型の社会意識が高いとすると、ネット社会では小池さんの言われるようなアメリカン・タイプの強烈な主体性が横並びの基準だとなった場合、そのなかで敢えて従来型の調和的な集団主義を維持するほどの強烈な主体性を保持するのは難しくなることはないのでしょうか。
ネット社会という言葉の定義が、杉井さんと違うかも知れませんが.....おっしゃる強烈な主体性の集団(コミュニティー)と横並び的な集団は併存するのではないでしょうか。つまり強烈な主体性と横並びの主体性を同質(程度の差or同じ色の種類)とボクには思えません。
両者は違う色(=異質)、たとえば赤と青みたいなもんだと思うのです。赤の中で青でいるのは目立ちます。逆も同じ。そして「アメリカン・タイプの強烈な主体性が横並びの基準だとなった場合」という前提そのものに疑問を持っているんです。
これが前回話した日米の情報通信業界を見たときに現れる特徴的な「主体性」の異質性という話です。
そしてコミュニティー同士でぶつかる。もっと恐いのはインターネットのおかげで日米といった大きな枠でなくても、コミュニティーの中に異質な集団ができると細分化していく。どんどん加速度的に断片化してゆく。
イメージとしては床に散らばったビー玉(=コミュニティー)みないな感じ。ネット世界(=意味空間)で各コミュニティーがごろごろころがってぶつかる。
ところで、主体性の話はその後、田中さんや飯坂さんによって進化論とか遺伝などの話に展開されているのですが、ボクは進化論みたいな長いスパンの話は苦手なんです。良く分からないし、頭が受け付けなくてフォローできません。ごめんなさい。
From: 杉井 鏡生
Subject: [00140] Re:日本人の主体性

杉井鏡生です。
(略)
その場合、かえってウルトラ非協調的な強者の論理に基づいた個人主義的な主体性の表出へ集団的に突っ走って仕舞う恐れはないのでしょうか(個人主義に集団的に突っ走るという表現は一見不合理ですが、無意識的な社会現象としてはあり得そうですよね)。
「その場合、ウルトラ非協調的な強者の論理に基づいた個人主義的な主体性の表出へ集団的に突っ走って」....て読んだ瞬間にあんまり大げさで大笑いしまいました。
これってどんな集団なんでしょうね。創造もできない恐ろしそうな暗黒結社ですね。
この表現、最高に面白いです。^^)
え〜と、冗談をいってごめんなさい。議論できるほどの根拠はありませんが、おっしゃるとおり確かに一般的にアメリカも日本も個人主義に突っ走っているように感じます。正直言って「個人主義に集団的に突っ走る」てこともあると同感します。

From: 田中 辰雄
Subject: [00167] Re:日本人の主体性


田中辰雄です
 飯坂さんどうもお返事ありがとうございます。
 飯坂さんのお話はなかなか刺激的で、またコメントしたくなります。しかしここで私が応じますと、話題がネット社会から離れ過ぎると思いますので、ここまでにしたいと思います。
 ただ、一言だけ申しそえると、私は進化経済学などというものをやっており、淘汰概念もよく使います。が、淘汰は社会の中の個々の部品(企業や制度)には使えても社会まるごとに対して使うのは少々難しいように思います。なぜなら、征服戦争でもない限り社会は存続しますし、少し視野を広げると社会の優劣(というか、適応・不適応)が実はつけにくいからです。
 誤解の無きようにつけ加えると、私も結論としては、日本に自己責任原則を*特定分野*にもっと採り入れることに賛成です。が、論拠の立て方がまったく異なります(ゆえに特定分野という限定がなされる)。しかし、このMLはその論拠の部分を議論する場ではありませんから、この話題はここまでにいたしましょう。
 議論に応じていただき、どうもありがとうございました。

From: 杉井 鏡生
Subject: [00168] Re:日本人の主体性


杉井鏡生です。
[日本人の主体性]
小池さん、私の発言にコメントをありがとうございます。
私の書いたものは少しオーバーだと思いますので、小池さんの書かれたように、「強烈な主体性の集団(コミュニティー)と横並び的な集団は併存する」と考えるほうが一般的でしょうね。
私がややオーバーに書いたのは、グローバルな大競争時代という大号令のなかで、自己責任論と主体性論が突出して出てくると、自己責任や主体性の上澄みをご都合主義的にとり入れて、かつてエコノミック・アニマルといわれたような意味での猪突猛進の恐れはないのだろうかと懸念したからでした(大ボケな杞憂であることを願っていますが)。
横並びというのは、周りと違うのが怖いだけですから(これは日本人だけではないと思いますが)、周りがみんな非協調的で個人主義的な環境であれば、横並びタイプの人であればあるほど、自分だけ協調的な態度をとるのは勇気がいりそうに思います(日常のグループ活動でもよくありますよね)。ここらへんは主体性の異質さなのかもしれません。
日本人は適応性と柔軟性は高いですよね(主体性論に柔軟性だけで適応されてはたまらんという意見もあるでしょうが)。パソコン通信が始まった頃、日本人がネットワーク上で知らない人とのコミュニケーションなんかするわけないと言われたことがありますが、結果的には、SIGやフォーラムのコミュニケーション機能が最もよく使われるようになったわけですしね。
それから、小池さんがいわれた「そしてコミュニティー同士でぶつかる。もっと恐いのはインターネットのおかげで日米といった大きな枠でなくても、コミュニティーの中に異質な集団ができると細分化していく。どんどん加速度的に断片化してゆく。」という話にも興味を持ちました。
ネットワークというのは、なんでも結んで行く可能性があると同時に(その結果、多様性をなし崩しに均質化してしまうのではないかという意見もありましたね...ここらへんも興味深いテーマです)、なんでも簡単に細分化することができるのも特徴のように思います。このことによって、ネットワークの社会的な運営バランスがとられることもあるかも知れませんけどね。

From: 山崎 一樹
Subject: [00169] Re:日本人の主体性


私は以下の見方には全く賛成することはできません。誤った認識であると考えるからです。以下、その理由を述べさせていただきます。
From: 飯坂 譲二
Subject: [00163] Re:日本人の主体性

日本は、ベトナム難民をどれだけ受け入れたのでしょうか?何人アフリカの難民を受け入れたのでしょうか。この意味では、北米のほうがどれだけ弱者に手を差し伸べていると思いますし、日本の方が弱者排除をしていると思いま
アメリカとカナダが何故ベトナムの難民の受け入れをするかといえば、それは一に「社会の活力の維持」、二に「政治的思惑」であって、「弱者受け入れ」というのはこれらの目的を遂行することに伴う付属物に過ぎません。
より有り体に言えば、カナダもアメリカも生き残りのために難民を受け入れているのです。飯坂さんの言い回しを借りれば「自分たちの生活レベルを下げないため」に難民を受け入れているのです。彼らは決してcharityで難民受け入れをやっているのではなく、実利としてやっているに過ぎません。
例えば、「アフリカ難民」と簡単におっしゃいますが、ソマリア難民の受け入れはどうだったでしょうか。カナダは受け入れましたが、アメリカは受け入れたでしょうか。彼らは実利の観点から冷徹な選別を行っているのです。
「政治的思惑」の先達として、アメリカやカナダの難民受け入れを見習うべし、というご意見であれば私は同感しますが、「弱者に対する対応」という観点での比較は誤解を招くだけであろうと思います。
From: 飯坂 譲二
Subject: [00163] Re:日本人の主体性

身体障害者などへの社会設備やシステムの程度は、北米からみると日本は先進国とは思えません。
これも全く違うと思います。アメリカとカナダで身障者のアクセシビリティが進んでいるのは、第一に面積的な広さがあるから、第二に財政的なゆとりがあるからに他なりません。確かに今ではちゃんとdisabeledに対する立法がありますが、これとてごくごく最近の話に過ぎません。設備やシステムの整備が進んでいるのはゆとりがあったから、それがスタートであることを看過すべきではないと思います。
従って、これも日本との比較の対象とするのは不適当な事例であろうかと考えます。日本だってゆとりができればちゃんとやりますよ。現に今は少しづつですがやってますしね :-)
以上、2点とも、私の拙い北米での生活での実体験から得た理解です。飯坂さんのご理解はいずれもmythに過ぎないと思います。
また、いずれも「ネットワーク社会」とは関係がないような感じを持たれるかもしれませんが、私は大いに関係があると思っています。というのは、ネットワークによってこういうmythが生じないようにすることができるからです。

From: 山崎 一樹
Subject: [00170] Re:日本人の主体性


From: 飯坂 譲二
Subject: [00164] Re:日本人の主体性

北米、とくに米国は、反対方向に行った人を切り離さず自由に泳がせます。
そして雲がはれ、どちらが高いかはっきりした時点で、高い方の道をみんなが追>い求めて、最終的には最高峰を極める事ができるようになっています。
すなわち、チームに異端者や弱者を含めていられればこそ、本当の最高峰に到達>できるわけです。
「北米、特に米国は」というところは、「世界の国の中でアメリカだけは」と下方が宜しいのではないでしょうか。少なくともカナダは違います。
細かいところにこだわるようで恐縮なのですが、前にも書きましたとおり、ネットワーク社会では「多様性の承認」がとても重要なのです。つまり、「違い」を理解するということです。飯坂さんの上記の例で言えば、異端者や弱者をどのように社会に位置づけていくかという点については、それこそ世界中で千差万別なのではないでしょうか。どの国やどのコミュニティのやり方が正しいというものではないのではないでしょうか。
別にアメリカのやり方が「反対方向に行った人を切り離さず自由に泳がせます。」というやり方であったとして、それを批判するつもりはさらさらありませんけど、そのような流儀を仮に「押しつけ」られるのだとしたら、そんなのはまっぴらゴメンという人々は世界中にゴマンといるでしょう。
サイバースペースでもそういう流儀でやられるんだとすると、やっぱり「まっぴらゴメン」ですね。
しかしどうもアメリカの方というのはこういう現実にお気づきではないのではないかと、かなり心配ですね、英語の方のメーリングリストを読んでいますと :-)

From: 飯坂 譲二
Subject: [00171] Re:日本人の主体性


飯坂 譲二
From: 山崎 一樹
Subject: [00170] Re:日本人の主体性

北米、とくに米国は、反対方向に行った人を切り離さず自由に泳がせます。
そして雲がはれ、どちらが高いかはっきりした時点で、高い方の道をみんなが追い求めて、最終的には最高峰を極める事ができるようになっています。
すなわち、チームに異端者や弱者を含めていられればこそ、本当の最高峰に到達できるわけです。
「北米、特に米国は」というところは、「世界の国の中でアメリカだけは」と下方が宜しいのではないでしょうか。少なくともカナダは違います。
カナダ観に違いがあるようですね。カナダの弱者に対する意識は、少なくとも表向き、USより進んでいるような気がしていますが・・・・
逆にこのじ自由度がカナダ独自の問題を醸し出しているように思えます。
From: 山崎 一樹
Subject: [00170] Re:日本人の主体性

細かいところにこだわるようで恐縮なのですが、前にも書きましたとおり、ネットワーク社会では「多様性の承認」がとても重要なのです。つまり、「違い」を理解するということです。飯坂さんの上記の例で言えば、異端者や弱者をどのように社会に位置づけていくかという点については、それこそ世界中で千差万別なのではないでしょうか。
弱者を切り捨てることが最適化の上で危険であることを申し上げているだけです。
残念ながら今の日本は横並びですから、多様性の認識する余裕がないのではないでしょうか。その為に、先生とまったく同じ解法をしないと解を正答と認めない空気もあるのではないでしょうか。
From: 山崎 一樹
Subject: [00170] Re:日本人の主体性

どの国やどのコミュニティのやり方が正しいというものではないのではないでしょうか。
私は別にどの国が正しいかを論じているのではありません。外部の変化に対応する一つの過程を申し上げただけです。
それを賛同できるか、取り入れるか入れないかはそれぞれの人の選択です。

From: 会津 泉
Subject: [00172] Re:日本人の主体性


隣の分科会の議論を、ヨコメで見ておりました。
アジアの方は、数では圧倒されているものですから。
で、「日本人の主体性」というテーマが、どなたかも指摘されていたかと思いますが、米国(西欧)との対比だけで進んでいるようなのに、すこし違和感を覚えました。
日本(人)だけが、西欧的価値観に付いていけない、というのは違うように思いますし、「自己責任」にしても、アジアの経済危機で露呈したように、多くの隣国で、同じような現象が出ています。
 これを、社会的なモラルや倫理観の欠如と指摘することは可能ですが、それで問題が解決できるかというと、どうもそうは考えにくいのです。
西欧型の自由主義を中心とした市場競争原理が、グローバル・スタンダードとして登場・貫徹し、あらゆる国・地域・社会がその規範原理に沿った行動へと改革されていく、という事態は、現実に進行している事実としては、よく理解できます。
しかし、それを人々が100%納得し、行動しているかというと、とてもそうは見えません。アジア諸国だけでなく、アメリカ社会にも、その点での軋みや各所に偏在していると思います。
「多様性の認識・理解」が重要、というのは私も同感ですが、その際に、アメリカ合衆国、EU連合型で「統合」することが、果たして、たとえばアジアに(あるいはアフリカに)も可能であり、最適なのかは、正直いってよくわかりませんし、疑問もあります。
では、どういう方法・理念があるのか、と問われると、はなはだ困惑してしまうのですが、「個」を基本原理とするだけでは足りないものがあること、それを「コミュニティ」と考えてもいいこと、などは、とりあえず思いつきます。
たとえばマレーシアは、マレー系、中国系、インド系が、おおきく6-3-1の割合で共存しています。ところが、憲法でマレー系を優遇することが保証される体制(いわゆるブミプトラ政策)をとっていて、インド系の人に言わせれば「憲法で差別を保証している、世界でも稀な国だ」との声もあります。
お隣のインドネシアでは、人口で3%しかいない中国系への暴動が始まっています。しかも、インドネシアでは、同じ「マレー系」といっても200の言語があるという、より複雑な「多様性」を抱えています。
インドでは、ヒンズーとモスレムが、選挙を挟んで対立を深めています。それでも、「主権国家」としては、統一を選んで、その枠のなかでの主導権争いをしている、のでしょう。
こうした文脈のなかに、「多様性」と「個性」を考えることは、なかなか容易ではありません。
インドでは、いったん政府によって発表された「インターネット政策」が、電気通信庁によって「我々はその決定に関知していない」と否定されたばかりです。マレーシアでは、プロバイダーが新規に認可されたと口コミで伝わってきたのですが、その裏付けとなる報道がなかなか見えてきません。それでも、各国ともインターネットの重要性は政治レベルではきちんと認識しているようです。その社会的なインパクトについては、よく見えないままで。
ごちゃごちゃ書いただけで、あまり発展的な方向に議論が進まないかもしれませんが。
PS この続きは、アジア分科会でも歓迎します。

From: 小池 良次
Subject: [00173] Re:日本人の主体性


小池です。
要約:
1)細分化の好例としてチャットの例をあげる。
2)ネットは刹那刹那で必要な話相手を見つけだせる可能性を広げた。これが細分化の加速度要因ではないか。
3)ネットは友人サイクルが短い社会を作るのではないか
From: 杉井 鏡生
Subject: [00168] Re:日本人の主体性

私がややオーバーに書いたのは、グローバルな大競争時代という大号令のなかで、自己責任論と主体性論が突出して出てくると、自己責任や主体性の上澄みをご都合主義的にとり入れて、かつてエコノミック・アニマルといわれたような意味での猪突猛進の恐れはないのだろうかと懸念したからでした(大ボケな杞憂であることを願っていますが)。
ボクも同じ心配をしています。
From: 杉井 鏡生
Subject: [00168] Re:日本人の主体性

日本人は適応性と柔軟性は高いですよね(主体性論に柔軟性だけで適応されて>はたまらんという意見もあるでしょうが)。パソコン通信が始まった頃、日本>人がネットワーク上で知らない人とのコミュニケーションなんかするわけない>と言われたことがありますが、結果的には、SIGやフォーラムのコミュニケーシ>ョン機能が最もよく使われるようになったわけですしね。
それから、小池さんがいわれた「そしてコミュニティー同士でぶつかる。もっと恐いのはインターネットのおかげで日米といった大きな枠でなくても、コミュニティーの中に異質な集団ができると細分化していく。どんどん加速度的に断片化してゆく。」という話にも興味を持ちました。
細分化の話、興味を持っていただいたので、すこし展開してみます。
ボクはインターネットのなかでもチャット周辺を重要な動きだと見ています。日本ではキーボードのため??あまり流行りませんが、英語圏ではSIGやフォーラムより活発です。ただボクはチャットと言わず、もう少し広い意味を持たせて「バーチャル・コミュニティー・ビルダー(VCB)」と呼んでいます。VCBの定義は長くなるのでここでは省きます。
このVCBの方向が断片化、細分化のもっとも最たる例だと思います。たとえばウェブ・チャット・サイトではコラボラティブ・フィルタリング(注1)を使って、何万人もの仲間や数千のチャットルームから気のあった仲間をその場で探せます。
また多人数の集まるパブリック・チャットにいても、気のあった相手が見つかれば二人だけでチャットできるプライベートチャットへと簡単に移行できます。
AOLではバティー(お友達)リストで友人が入ってくると自動的に知らせてくれ、インスタント・メールでチャット的な話ができます。ボク自身はICQという同じ仕組みを使ったウェブサイトを使っていますが、深夜になると13時間の時差を超えて編集部や友人とリアルタイムでコミュニケートしながら仕事ができたりします。
これじゃ子供達が家に帰ってきて食事もそこそこに部屋にこもってAOLやウェブ・チャットに浸るの気持ちもよくわかります。これこそ核家族(=最後の砦)の中で各個人がコミュニティーに細分化された例かもしれません。(幸い、我が息子は幼くてまだそこまで達していません。でも夫婦喧嘩はメールでやり取りすることになってます....みなさん、これお薦め!!ですよ^^)
つまりネットワークのおかげで刹那刹那の嗜好や感情、必要な背景情報に合わせて、話相手を見つけだせる可能性がすごく広がりました。将来、人にとってもっとも良き理解者は両親や兄弟といったファミリーの枠内だけではなくなるでしょう。
これが細分化の加速度要因ではないかと思います。
また、人は家族や地域社会、職場、趣味など複数のコミュニティーに属しています。友人というのは職場や地域社会、趣味といった閉塞されたコミュニティーを使って(=ゲートウェー)形成されました。これは友人のライフサイクルが長い社会です。(信頼感が高い、相互依存が深い、閉塞性の厳しい社会)
これがネット社会では変わってくるのではないかと最近考えています。(まだおぼろげな直感レベルですが)
インターネットという開放的な空間がゲートウェーとなって友人関係をその刹那刹那で形成して行く。一種のパーティー状態が形成できるかもしれないと思っています。(友人サイクルが短い社会)
これが以前書いた「床に散らばったビー玉状態」です。その場その場でゴロゴロところがってはぶつかり合う世界.....がネット社会の一側面となるかもしれません。
いま、この短い友人サイクル社会が本当にくるのか?
そうすると
=精神的な依存関係(信頼感とか)や経済的な依存関係は変わるのか?
=単純に「信頼感が低い、相互依存が浅い、開放発散型の社会」と言えるのか?
=BtoBも変わるだろか?
=たぶん主体性の話もそうした状況ではだいぶ違ってくるだろうな〜
....などと馬鹿な話に頭を回しているところです。たぶんプロファイル・システムが友人短サイクル社会では重要になるだろうとも思っています。
-----------------------
注1:コラボラティブ・フィルタリング
 コラボラティブ・フィルタリングの代表例としてはファイヤーフライ(FireFly、ホタルの意味)があります。ファイヤーフライ(http://www.firefly.com)は、もともと登録者数が100万人を越えるチャット・サイト。その特徴は、コラボラティブ・フィルタリングを使ってアクセスしてくる大量の人々を、気のあった仲間同氏のコミュニティーに振り分けていることです。
 コラボラティブ・フィルタリングは実に単純な原理です。たとえば5000人の人が集まっているとする。その内で坂本竜一氏の音楽が好きな人に手をあげて貰う。さらに、黒沢明の映画が好きな人は、手をあげ続けてもらう。そして三島由紀夫が好きな人は更に手をあげ続けて貰う。
 この3つの質問で、5000名のなかから数十名の人が残るでしょう。この人達は基本的に同じ属性の集団で、話題やショッピングなどが同じ趣味のはずです。

From: 古川 泰弘
Subject: [00174] Re:日本人の主体性


古川泰弘です。
From: 杉井 鏡生
Subject: [00168] Re:日本人の主体性

ネットワークというのは、なんでも結んで行く可能性があると同時に(その結果、多様性をなし崩しに均質化してしまうのではないかという意見もありましたね...ここらへんも興味深いテーマです)、なんでも簡単に細分化することができるのも特徴のように思います。このことによって、ネットワークの社会的な運営バランスがとられることもあるかも知れませんけどね。
このアタリ、興味もちました。
結果として多様性が崩れ、均質化するは、ネットワーク環境によって左右できると感じています。インターネットを使い出した頃は技術的にも多様性を受け入れられる情報容量が少なかったように思います。しかし現在はネット環境も改善され、多様性が可能になっています。
既存の社会の仕組み(よい慣習、悪い慣習を含めて)が移行できたときにそのネットワークは現実の鏡となり、現実にも写される。インターネットは、色々な意味で多様性を認めているため、問題も起きるけど、問題解決も可能。
ネットワーク鏡論(今作った^^;)になってしまいましたが、現実に影響及ぼさない関係を保ちつつ改善できることを考えると、多様性は保持されると思います。

From: 杉井 鏡生
Subject: [00175] Re:日本人の主体性


杉井鏡生です。
[日本人の主体性]
このスレッドは、ますます活発になってきましたね。飯坂さんや田中さんの展開された自己責任論の論拠に関する議論は、それ自体大変興味深いのですが、田中さんのいわれるように、論拠そのものを議論すると、この会議では扱い切れないかも知れません。なるべく主題のネットワークの社会問題を中心にその中で必要な場合に論拠にふれるという形で少し絞っていきましょう。
ネットワークの社会問題という点では、飯坂さんが書かれた下記の点
From: 飯坂 譲二

オンライン投票の可能性、国民人気投票と愚民国家、議論の場としてのインターネット、政党の宣伝の場としてのインターネット、海外在留邦人の投票方法としてのインターネット、政策の説明や根拠の提示の場としてのインターネットいろいろありますが、最終的には何かを判断しなければならないと思います。
というあたりは、まだあまり議論されていないので、このスレッドの流れのなかで議論できればと思います。ぜひ皆様からもご意見を下さい。
飯坂さんの主張されている自己責任原則の推進論は、適者生存型のもっぱら個人に依拠した市場競争社会的なニュアンスのものと思います。しかしその一方で、そのためには弱者を排除しないことの必要を言われています。
これについては、飯坂さんの主張されているような適者生存型の自己責任原則を日本に求めるのが適切であるかどうかという論点がひとつあります。この場合、日本人に飯坂さんの言われるような主体性を求めないほうがいいという議論もありますが、同時に、自立と自己責任原則の拡大は求めつつも、(対象領域によっては)適者生存型だけではない方法を考えている方もあると思います(高木さんのご意見はそのひとつでしょうか)。そうした点からのご意見もいただければと思います(なるべくネットワークに関連した話で)。
また一方、飯坂さんの主張を実現しようと考えると、飯坂さんの場合も、すべてを個人の自己責任だけに任せるというわけではないようです。情報洪水のような問題に対しては、甘えずに自己の努力で処理しろというにしても、ネットワークの中で起きる犯罪に関しては法律で取り締まることを想定されているように思います。
その意味では、どの問題についてはどこまで個人任せの自己責任原則にし、自己責任原則を実現する上でも個人任せだけでは済ませない問題については、どのような対応(社会的な役割分担を含めて)をすべきかということの検討が必要な気がします。政府そのものを無くすほどの徹底した個人の自己責任原則を前提にするなら、こんなことはもはや検討課題にもならないでしょうが、そうではなければ、境界領域が曖昧なところから足元をすくわれてしまうことを危惧します。いかがでしょうか。

From: 古川 泰弘
Subject: [00176] Re:電子ネットワークで通信の秘密をどう守る


古川泰弘です。
From: 杉井 鏡生
Subject: [00151] 電子ネットワークで通信の秘密をどう守る

[電子ネットワークで通信の秘密をどう守る]
電話などでも、かなりの盗聴が行われているといわれてますし、部屋にだって盗聴マイクが仕掛けられることはあるわけで、他のメディアなら安全というわけにもいかないでしょうから、どの程度の完全性を求めるかにもよりますが、みなさまから、この問題をどう考えるかというご意見と、何が有効な防衛手段かのご意見を伺えればと思います。
このテーマには興味をもっております。 私の経験からとった手は、ざっとこんなもんです。一般の人にも利用できるものを挙げてみました。
1、情報量を多くすることで、盗む側で処理しきれなくさせる。
電子メールの数を膨大に増やす。自分に届いたものは、自分のフィルタソフトで、不要なものをごみ箱に捨てる。欠点は、情報経路のトラフィックの増大。
2、情報を受ける口、送り出す口を増やす。
ネット社会では、匿名性を利用することで防御にも使えます。情報の一部の盗みだけでは、全体を見えなくさせる。
3、情報に情報を混在させる(Steganography、情報迷彩を施す)。
デジタルコンテンツの確保では有名な Information Hidingを使う。同ソフトはフリーで配布されており、誰でも利用が可能。

From: 杉井 鏡生
Subject: [00177] ネット社会問題解決への世界協調に向けての提言


杉井鏡生です。
[ネット社会問題解決への世界協調に向けての提言]
当分科会で予定していたテーマを全部はこなし切れていないので、これまでの議論などを参考に、海外からの参加者も含めた3月15日のサミットで議論すべきテーマおよび、全体のまとめについて提言をいただければと思います。
この分科会では、日本での個別的な問題を含めて、かなり突っ込んで議論がなされてきましたが、これらを踏まえたうえで、今回のサミットのテーマである「ネットワーク社会問題解決への世界協調」に合わせた形での提言と問題提起をいただければと思っています(サミットとの連携を図るためにも)。
たとえば、当初の「ネット紛争解決」の議論から「日本人の主体性」にいたるまで、共通したテーマとしてあるのは、ネットワークの社会問題解決における主体と役割分担(国家、企業、民間公共組織、個人)はどうあるべきかとか、それは社会問題の対象領域によって異なるのではないかということが検討課題としてあげられようと思います。これについての世界協調のあり方が問題としてありそうです。
また、分科会としてひとつの意見にまとめようという主旨ではありませんので、世界の協調ということを考えたとき、山崎さんがいわれた、特定の基準を押し付ける傾向があるので、そうならないようにすべきというような提言も結構ですし、それとは反対に、特定の共通基準をこそつくるべきだという提言も結構です。
司会役として、これまでのログから提言をまとめてみようと思ったのですが、大変に難しい作業であることが分かりました。どうかご協力のほどよろしくお願いいたします。
なお、これまでの議論は、最終日までそのまま継続する予定ですので、引続きご意見をお寄せ下さい。

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あなたのご意見をお寄せ下さい

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