あのとき、感じたこと。〜連載企画の裏側にある情熱〜

こだわり続けた当事者目線とデータジャーナリズム 経済部次長・渡辺康仁

2016年12月から1年間、朝刊1面で企画「砂上の安心網」を連載した。医療や介護、年金にかかるお金は高齢化の進展によって膨らみ続けている。取材班の問題意識は、未来を見据えて大きな決断をしなければ老後や暮らしの安心網は持たなくなるということに尽きる。患者やその家族など当事者の目線で描いた私たちの連載には予想を超える反響が寄せられた。記者たちは制度論だけでは見えてこない社会保障の不都合な現実にたじろぎながらも、答えを求めてひたすら現場を歩き続けた。

渡辺康仁 経済部次長 1994年4月、日本経済新聞社入社。東京本社編集局整理部に配属。1998年経済部、2002年日経ビジネス編集部。経済部、名古屋支社編集部などを経て2012年10月日経ビジネス副編集長。15年4月から現職。

「命」と「財政」のはざまで葛藤 記者の経験と現場の取材 重ね合わせて報じる

 取材班が発足したのは連載が始まる5カ月前の2016年7月だった。大型の連載企画は本来の担当を越えて記者やデスクが集まる。私たちの取材班は経済部、政治部、社会部、企業報道部、証券部、地方部、生活情報部、大阪経済部、整理部に所属する記者とデスクの計20人ほどで構成した。医療などを専門的に取材し続けてきたメンバーもいれば、この取材班に加わって初めて本格的に社会保障と向き合った記者もいた。経験や知識の量はスタート時こそばらばらだったが、数カ月もたつとどのメンバーも厚生労働省の担当記者に劣らないほどの専門性を身につけていた。 人に会ったり、本や資料を読んだりしてメンバーそれぞれが懸命に努力をしたのはもちろんだが、振り返って思うと、取材班全体の問題意識を高めたのは徹底した議論の積み重ねだった。記者たちはそれぞれの持ち場で日々の取材に駆け回っているが、取材班として毎週1回は集まって2時間ほどの議論を続けた。

 私自身、入社当時に聞いたデスクの言葉を今でも覚えている。そのデスクは「新聞社では記者もデスクも対等だ」と教えてくれた。会社組織として上司と部下の関係であっても、より良い紙面を読者に届けるという一点においてはそれを越えて意見をぶつけ合う。時代が変わっても日経の闊達な社風は息づいている。 報道する立場として、社会保障には特有の難しさがあると感じている。誰もが関心を持つテーマであるだけに、これまで数限りない記事や専門家の分析が世に出ている。日経も社会保障の持続可能性に警鐘を鳴らす企画記事を何度となく掲載し、いくつかの改革案も提言してきた。言い方を変えると、読者に新しさを感じてもらう記事を作ることが難しいテーマの一つなのだ。 ただ、この難しさは私たちにとって企画を進める糸口になった。社会保障は老若男女すべてに無縁でないとすれば、それは記者自身も例外ではない。20~40歳代の取材班のメンバーはそれぞれに子育てや親の介護をして、大事な人を見送ってきた。これまでの人生で経験したことを現場の取材と重ね合わせながら描くことができるのではないか。それが私たちがたどり着いた「当事者目線」の報道だった。企画が動き始めた。 社会保障は誰もが納得する答えを導き出すことはできない。高齢化で必要になる費用が膨らむ一方で、それを支える現役世代は減り続けている。痛みの分かち合いでしか持続可能な未来は見えてこない。私たちが社会保障を通して見ていたのは日本の財政の危うさだ。 命と財政をてんびんにかけることなどできないが、記者たちはそのはざまで葛藤した。簡単に答えが出ない問題だからこそ、読者とともに悩み、そして考える。賛否が分かれるような政策課題について読者に考える材料を提供するのは、今もこれからも新聞の大きな役割でもある。

ルポでつづった記者の等身大の思い 中堅記者「一番思い出に残る記事になった」

 がん治療に「革命」をもたらしたと言われる新薬オプジーボを取り上げた回では、実際に投与を受けていた2人の男性を取材した。1日でも長く生き続けたいという患者の切実な思いと、国民皆保険制度ができあがった1961年当時には想定されていなかった超高額薬が制度を揺るがしかねない現実。企画の本編である1面でオプジーボに代表される超高額薬が投げかけた課題を描き、それと連動させる形で2面に掲載したルポルタージュで記者の等身大の思いをつづった。 オプジーボを使用していた患者を取材した記者の母親もがんを患い、切除手術を受けていた。再発や転移に不安が募る日々。オプジーボが使える種類のがんではなかったが、記者は「もし母親にも使えるようになったら自分はどう判断するだろうか」と記事で吐露した。財政の危うさを知る日経の記者であるとともに、母親を思う1人の息子でもある。二つの視点を交差させた記事に読者から共感の声が届いた。 年に130万人近い人が亡くなる日本で避けて通れなくなっている終末期医療の問題も現場の様子と記者の実体験の双方から描いた。専門家の研究をもとに取材班が試算したところ、65歳以上の人が死亡するまでの3カ月間に使う医療費は1兆2000億円に上る。多死社会を迎えた日本ではいずれこの医療費と真剣に向き合わなければならないときがくる。 記者の1人は延命治療の入り口になる救急病院に一晩密着した。救急車で運び込まれた高齢の女性に人工呼吸や心臓マッサージが施される場面にも立ち会った。残念ながら蘇生措置は功を奏さず、医師は女性の家族に延命の中止を告げた。こうした現場を1面で描き、2面のルポでは胃ろうによる妻の延命治療を3年間続けた男性の悩みを、がんで父親を亡くした経験を持つ記者の目線で取り上げた。

 「長年連れ添い、一心同体のような伴侶の延命はやめられなかった」と振り返る男性は、嫌がる妻を説得して胃ろうの手術を受けさせた。しかし、妻が亡くなって3年がたっても、その判断が正しかったのか悩むことがあると打ち明けてくれた。ルポを書いた記者の母親は夫の終末期について「最後の半年間、一緒にいられてよかった」と語った。夫のために評判の良い病院を探して手術を受けさせ、民間療法も試した母親。記者の思いのなかで、取材した男性の葛藤と重なった。読者からは「延命治療は患者を治すためのものではない。死期を先延ばしするだけだ」という声も寄せられた。 ほとんどの記者は入社以来、取材先の人物や会社に関する記事を書き続けている。自分や家族について書くことは通常の業務ではまず考えられない。記者自身の実体験を掲載するにあたっては、筆者とデスクが互いに納得いくまで話し合った。 思いの丈を書き連ねるだけでは新聞記事として読者に伝わらない。遠慮がちに書いてもリアリティーに欠けてしまう。どこまで赤裸々に書くべきか――。どの記事も試行錯誤の連続だった。入社から10年ほどがたつ記者は、ルポを何度も書き直した末に「今までで一番思い出に残る記事になった」と話した。 私たちの手法がすべて正しいと言うつもりはない。全く違ったメンバーが社会保障をテーマに連載企画に取り組んだとしたら、もっと効果的なアプローチを見いだすかもしれない。ただ、私たちは可能な限り手触りのある報道をすることで、億円や兆円単位の数字が飛び交う社会保障の問題が読者一人ひとりにかかわるものだと受け止めてもらえるのではないかと考えた。

データを発掘し、独自の分析を加える新聞の新たな役割に挑んだ

 当事者目線の報道を連載の柱の一つとすれば、もう一つの挑戦がデータジャーナリズムだ。新聞などの新しい役割として、政府や企業が持つデータを発掘し、独自の分析を加えて報じる手法が広がり始めている。日経はグラフや写真を記事と組み合わせてニュースやトレンドの真相に迫る電子版の「ビジュアルデータ」で様々なコンテンツを発信している。日経が買収した英フィナンシャル・タイムズはデータ分析の専門家を社内に配置している。 2016年12月の連載の初回では、75歳以上の後期高齢者にかかる医療費が歯止めを失いつつある現状を示すため、全国1740市区町村の1人当たり医療費を調べた。厚生労働省は都道府県単位の数字を集計しているが、市区町村の全容は初めて明らかになった。 1740ものデータがすんなりと集まったわけではない。情報の開示を拒まれることも少なくなかった。粘り強く説得を重ねた結果、約5カ月かけて膨大なデータの収集にこぎ着けた。その後の分析から浮かび上がったのは、後期高齢者1人当たりの医療費は自治体によって2.6倍もの格差があるという事実だった。 医療費を多く使う自治体を取材すると、病院や病床が過剰だったり、長期入院する人が多かったりする現実が分かってきた。市区町村別のデータは医療費を抑制するにはきめ細かい対策が不可欠であるというメッセージを発していた。

寄せられた多くの反響 データが持つ可能性を再認識

 このデータには自治体関係者などから多くの反響が寄せられた。紙面や電子版に掲載した以上の詳しい情報を入手したいという声が相次いだ。「個別のデータを突き付けられると問題意識が高まる」。こうした声に接し、私たちはデータが持つ可能性を再認識した。 その後、後期高齢者の1人当たり医療費の調査を発展させる形で、1740市区町村のがんの死亡割合も初めて分析した。そこから明らかになったのは、同じ都道府県内でもがんによる死亡割合に大きな格差があるということだった。多くの医療費を使っていても死亡率を抑えられない自治体もある。日本人の2人に1人がかかるとされるがんの治療体制に大きな課題があることが浮かんできた。 がん調査の結果は1面のニュースとともに、ビジュアルデータで詳細に報じた。ビジュアルデータでは1740市区町村のがんによる死亡割合と医療費の関係を自治体ごとに色分けした地図を使って一目で分かるようにした。自治体や医療研究者から大きな注目を集め、心臓病や脳卒中の地域格差もビジュアルデータとして電子版に順次掲載していった。 連載企画「砂上の安心網」は2017年12月に掲載した第7部をもって幕を閉じた。2018年は医療や介護サービスの公定価格である診療報酬と介護報酬の改定の年にあたる。ただ、2017年末に決まった政府の予算案を見る限り、政治や行政の社会保障の未来への危機感はいまだに薄いと言わざるを得ない。新聞報道の原点である現場主義と新たな可能性を秘めるデータジャーナリズムの追求に終わりはない。より良い日本を将来世代に残すため、私たちはこれからも自問自答を繰り返していく。

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