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NIKKEI NET

ルールを創る:企業家精神と法

パネルディスカッション:「ルール改革のエンジンを探る」

 

(一)ルール・メーカー(3)司法

大森泰人 金融庁企画課長

(@)市場司法の信認の条件

── 規制緩和の時代になると、最後は裁判所を頼ることが多くなるわけですけれども、近時いろいろな有名な裁判の判決を見ておりますと、いろいろ迷うほうの「迷裁判」も何か多いように思います。

 配布資料の8ページ以下です。旧日本長期信用銀行粉飾決算事件と、それから先週、大阪高裁で損害賠償15億円強の支払い命令が出ました、破綻した抵当証券会社「大和都市管財」事件の国賠訴訟を取りあげたいと思います。大和都市管財事件では、行政の不作為責任。もう少しきちんとこの金融会社を監督しておけ、しなかったのは近畿財務局の怠慢であるという地裁、高裁の判断だったわけです。

 それから、旧長銀事件。旧経営陣は粉飾決算で訴追されまして、刑事事件は1審、2審有罪だけれども、最高裁で無罪。その一方で、民事事件の損害賠償事件では、1、2、3審すべて免責だという、極めてねじれた、「民事免責、刑事有罪」という非常に珍しい下級審の経緯をたどったわけです。大森課長からごらんになって、いわゆる規制緩和時代の最後のとりでである裁判所は頼りになるのでしょうか。

大森 ライブドアが時間外取引でニッポン放送株を取得し、それに対してニッポン放送が新株予約権による防衛策をつくったとき、私は、100メートル走を全力疾走してゴールに近づいたら、いきなり200メートル走にされるようなものだ、幾らグレーに殴られたからといって、ブラックに殴り返せるものではあるまいといっていました。当時、同じ判断をした東京地裁の判決でも、先ほどの企業価値研究会とか、金融庁の対応をかなり丁寧に検証しておりまして、司法判断といえども、純粋法律論だけでは済まないし、市場というものに対する一定のセンスが不可欠だと思います。

 よく郷原信郎さんが、法令遵守が日本を滅ぼすという物騒な逆説を唱えているのは、経済が市場化して、ルールが精緻になればなるほど、ルールを形式的に守っているだけでは不都合が増えるということなんですけれども、それが先ほど来、お話の出ているプリンシプルベースの行政対応とも通じていると思います。

裁判官、もう少し世間を学んで

 ただ、市場司法とか経済司法というのを制度的に確立できれば、それに越したことはないのですが、当面は裁判官にもうちょっと世間を学んでもらうしかないんじゃないかという気もしておりまして、知り合いの最高裁判事が、彼を支える調査官たち、これは日本の裁判官の最エリート層ですけれども、日経を読んでいる者が半分もいないといって嘆くのですね。きょうは日経の主催ですから、別にヨイショするわけではないのですが、ブルドックソースのような事案を判断するための基礎作業に携わる人たちが、日経も読んでないとすれば、相当心もとないと思います。

 民事ですらそうですから、刑事みたいに順番に担当しているだけだと、三宅さんがいわれるように、結構びっくりするような判決を読まされたりするわけで、捜査する人が、額に汗して働いていないくせに儲け過ぎて目立つやつは犯罪者にしてやろうなんて思って、裁判所はそれを追認するだけだとすれば、結構怖い世の中だと思いますね。

 実際にはなかなか難しいのですが、岩倉さんがおっしゃったように、捜査当局でも裁判所でも、市場とか経済の事件を扱う人たちには、最低限必要な知識とかセンスというものを備えるような仕組みができないかなと思うことは結構あります。

── 岩瀬さん、一言ございましたら。

岩瀬 特に資本市場関連の事件で見ていますと、そこでの判断としては一般の方々の常識に合う判断、要するに「ライブドアをとっちめろ」とか、「スティール・パートナーズはけしからん」といったことになっているのかもしれないのですが、グローバルな資本市場の参加者から見ると、極めて非常識ないい回しであったり、結論になったりしていることが少なくないと思うのです。

 そういったときに、だれが一定のポリシーメーキングの目的をもって、ルールの解釈なり運用に指南を与えていくかと考えますと、裁判所にもっと資本市場をグローバル化するために判断をしてくださいというのは、余り現実的ではなくて、そうだとしますと、先ほどの経産省の企業価値研究会みたいのもありますけれども、ああいった行政側がよりリベラルな方向で出して、裁判所がそれを少し保守的に判断していく、そういった構図のほうが現実的なのかなと思っています。

 現状は、実際は経産省を中心として、どちらかというと保守層ですね。経団連寄りの法の解釈の運用指針とか、そういったものを出されているので、そこはすごく残念だと思うのですけれども、裁判所の方々に急にグローバルな資本市場の実態を勉強していただくというのも時間がかかると思いますので、そういったところでこそ、行政が果たすべき役割というのはあるのではないかと考えております。

── 高橋さんが検察側証人をされた旧長銀粉飾決算事件は刑事事件の1審、2審は有罪だったのですが、最高裁で逆転無罪となりましたけれども、証人をされた高橋教授としては最高裁判決をどのようにごらんになったのですか。

高橋 証人というのは被告ではなく、別に私が裁かれたわけでも何でもないので、一つの最高裁判断が出たのかなと思いますけれども、長銀事件で証言したことは実は2点あるのです。

 1つは不良債権を処理しなかったらどうして商法違反になるのかという法理ですね。これはそんなに難しい話ではなく、不良債権を処理しない、また過少に処理すると、配当可能利益がふえ、その分だけ役員賞与がふえるというロジックなわけです。それを証言してくれといわれたので、そういうことをいっている学者がほとんどいなかったので、それは分かりました、証言しますといって、法廷で証言しました。

 もう1つは、ある基準に基づいて不良債権を処理するという、その基準が妥当というか、みんなが納得していたかどうかという話ですね。その基準が社会できちんと根づいていたかどうかという話です。

 この判決を見ると、第一の不良債権を処理しなかったら違法というところは認めらていますが、第二の基準についてはそのときに多くの人が必ずしもそれを納得していなかったという趣旨であると思いました。

 ただ、正直いって、判決が確定したから今さらどうってことないのですが、私も実はその裁判で聞かれまして、判定基準は妥当であると思いますと答えました。

 東京地検のほうもきちんと準備をしていて、不良債権の程度に応じて引当額がちょっと違うのですけれども、W分類といって、全額引き当ているという分類があるのですが、実はW分類だけを取り出してこの事件は立件されていました。私の金融検査官をやっていた経験でいうと、W分類について判断で疑義が出ることはほとんどないのです。ですから、裁判においても、W分類というものについての疑義が出る可能性はほとんどないといいました。

 ただし、これは先ほどの金融行政の話と多少関係があるのですが、金融庁の幹部、かつて銀行行政をしていた幹部で、検査官を経験した人がほとんどいないと申し上げました。この裁判に呼ばれて証言した役所の人は、私の知る限りでは、実は金融検査経験のない人でした。検査経験のない人に不良債権の判定の話を聞くと、実はよくわからないのです。よくわからないから、こういうときに判定が人によっていろいろ違うんじゃないですかと、おそらく一般論で答えると思います。それによって裁判官に与えた心証が多分大きかったのかなというのが、私の印象であります。

証人選びは肩書きではなく

 要するに、実はよくわからない人、ただし、役所のかつての肩書きでみれば、当然裁判所のほうは、その人はよく知っているものだという前提で証人として呼んでいると思うのですね。でも、私の経験では、実は金融庁の幹部でも、自分で検査したことがないですから、実はわからないです。

 私自身は、実は不良債権で、1993年から1994年について、ほぼ全国を回って数千件の不良債権の処理をしたし、金融検査もほとんど1年間ずっと出ずっぱりで、あと、デリパティブズの特別の検査というのでも、いろいろな金融機関も行ってやりました。

 ですから、もしそういう金融検査経験がある人を呼べば、これは私の思い過ごしかもしれませんけれども、W分類の判断の疑義というのは多分なかったのではないかと思います。そういう意味で、実は裁判所も素人でわからないでので、役職であった人を呼んで、判定を聞いて裁判をしているわけです。それなのに、役所の人に不良債権の知識がないのです。もうすこし端的にいうと、不良債権かどうかというのは、金融機関の方だったらご存じだと思いますけれども、ラインシートを見て、あと実際にいろいろな担保物件を見て判定するのですが、私の経験では、W分類を間違うというのはほとんどなかったですね。

 その意味で、最高裁判決ではこの判定基準が変だということで、逆転という形になりましたけれども、それは正直いって、かなり驚いたというのは否めないと思います。誰を証人にして呼ぶかというので、結論が違ってしまうような話なのかなと思いました。

 ただ、私も裁判に出て裁判長と話もしましたけれども、この事件そのものは、本当に悪い人は、被告ではなく全然違う人だということをみんな知っているんです。しかし、時効の壁とか、そういうので責任をとらせられないというので、ちょっと申しわけないけど、ある意味で筋違いの別件逮捕的な事件ということを、関係者はみんな知っています。ですから、そういう思いが多少どこかにあって、今回のような逆転判決になったのかなというように、私も思っています。

 率直にいうと、裁判所も知らないし、呼ばれている証人も、どこまで知っているか、結構微妙ですね。私自身は、実は事件の対象となった金融機関を検査をしたこともあるので、知っている範囲で証言したのですけれども、そのような検査経験も全くない場合ですと、基準について、それは一般論としては、不良債権の程度が違うと、これは判定によって違いが出てきます。それで不良債権の程度が違うと、人によって意見も違うし、要引当額という数字も違います。それをなるべく統一化するためのディスカウントキャッシュフローとか、そういうのは導入しましたけれども、それでも正直いって、人によって判断は違いますね。

(A)「一票の格差」、世襲議員(既得権益化)と「構造改革」

── ありがとうございます。配布資料の10ページの資料Fのほうに参ります。日本の最高裁判所はルール・メーカーとして大きな比重を占めているわけです。その中でも、民主主義というか日本の政治を考える上でも「1票の格差」というのが戦後、ホットな憲法訴訟になっているわけですけれども、ご案内のように、一般的には消極的な司法判断が続いております。その一方で議員の世襲化が進んでいるということです。このあたりのところにつきまして、福井教授は『司法政策の法と経済学』というご著書もございますが、どのようにごらんになっていらっしゃいますか。

福井 1票の格差の問題は、司法をめぐる、あるいは司法と立法、行政という三権分立をめぐる最大の論点の1つではないかと考えています。これは最高裁や裁判官の人事なり任命の仕方にかなりかかわりがあります。

憲法理念と、最高裁判事任命の実態の乖離

 最高裁裁判官にしても下級審の裁判官にしても、任命権者は内閣なんですけれども、実態はほとんどが最高裁の判事でもない最高裁の事務総局、長官を頂点とする事務総局の職業裁判官集団が提出した名簿を、そのまま内閣が追認するという形で、最高裁の裁判官人事も下級審の人事も行われてきています。憲法に書いてある建前と実際の任命の手法とは全く異なる形で運用されている。

 これが米国やドイツとは大きく違うところでありまして、米国やドイツでは政権交代の都度に、その政権の考える正当な法解釈を示すことが想定される裁判官を任用すべく、そのメッセージを実現するような裁判官人事が政治的に広く行われています。また、裁判官につきまして、例えば日本ですと、司法試験を通って司法研修を終えると、20代の半ばぐらいから定年まで職業裁判官として勤め上げるわけですけれども、これも建前と比べると少々おかしい。憲法には裁判官の任期は10年と書いてありますが、事実上定年までの永久更新になっている。時々、青年法律家協会の人とかが再任拒否にあって、それ自体が事件になって話題になりますけれども、では、ほかの人はみんな適任か、逆に青法協の方はそんなに不適任かということについては、実証的な論拠が全然ないのです。

 なぜ国会議員選挙における1票の格差が是正されないままになっているかということと、裁判官の人事とが密接に関係しているという仮説を持っています。これを実証するのは必ずしも容易ではないのですけれども、かなりの程度妥当すると思います。

 これは、人事への政治介入を招かないための裁判所の自己抑制措置として説明するのが一番説明しやすいと考えます。違憲立法審査権を不行使とすることで、行政から裁判官人事に対する介入を受けないことを期待している。すなわち、行政寄り判決を下すことによって人事の聖域を守るという動機づけが、裁判官職業集団にはかなり強くある。このように見てとれます。

国側100%勝訴の背景

 ちなみに、私自身も建設省の職員のときに、例えば成田空港訴訟や長良川水害訴訟、長良川河口堰訴訟といった、かなり大きな裁判で国や大臣の代理人を随分務めましたけれども、私がかかわった案件は100%国の勝訴でした。負けたのは1件もありません。法務省の訟務検事などの訴訟指揮のもとで、一定の法律論が正当だと認められたのかもしれませんけれども、それにしてもおよそ行政事件では被告敗訴率が著しく低いのは不自然だと思うわけです。実際に多くの判例から個々の事件を見ましても、行政庁の実際上の優位と裁判官のおかげかもしれないと思われる事件も随分あります。

 私の経験では、非公式な裁判準備手続では、収用法の解説書は何を読んだらいいのか等、収用法の所管部局の私に聞いてくれる裁判官などがいるわけですね。当然、官製学説について先輩が書いた注釈書をお勧めするわけです。また、最近の行政法の教科書は何を読んだらいいんだろう。大学時代に単位を取らなかったし、司法試験でも選択しなかったので、こういう事件を割り当てられて苦慮しているとこぼす裁判官まで、田舎に行くといるわけです。

 こういう人たちを相手に、国側の代理人は、検事も私たちもそうでしたけれども、準備書面を書くときには、できるだけそのまま判決に引き写してもらっても構わないような体裁とロジックで書きます。いわば判決の代替措置を盛り込んでおくのが勝訴のための重要なテクニックでした。行政事件では原告がめったに勝てないのですけれども、これはかなりの程度最高裁によるバイアスのかかった人事と、いわば裁判官の専門知見の不足に依拠していると判断せざるを得ないのです。

 その典型が選挙無効の判決だと思います。現在は皆さんよくご存じのように、一票の格差が憲法の法の下の平等に違反しないためには1対5以内ぐらいに格差を抑えるのが最高裁の憲法判断の目安です。1対5といってもすごいです。要するに、1票の重みが、地方部の一部の選挙区の方は、都市住民に比べると5倍もある。5倍ものウエートで国政に対して発言権を確保できるわけです。

 ところが、これもすごい基準だと思いますが、5倍までは合憲です。100歩譲って、1対10とか、1対15になっていたとして、これは憲法違反だ。法の下の平等を定める憲法14条に反するといって選挙無効の訴えが起きると、判で押したように、憲法違反だけれども、選挙は有効なので訴えを理由なしとして棄却すると最高裁はずっといい続けているわけです。

 なぜ有効なのか。行政事件訴訟法に事情判決という制度がありまして、いわば違法だけれども、取り消しによってさまざまな混乱が社会的に生じるときには、諸事情、すなわち、被害者にちゃんと損害賠償をしたかなどという諸事情を勘案して、違法だけれども棄却することができます。違法なら、普通は取り消さないといけないんですけれども、違法だけれども事情判決の法理にならい、理由なしとして棄却するという特別な制度を認めているのです。

 典型的には、例えば土地収用でダムをつくって、ダムができた後になって、実は収用法の要件に反して収用処分が違法だったということがわかったときに、ダムを全部撤去するとなると、大変な混乱が起きますから、いわば違法なダム事業によって立ち退きを迫られた人たちに対する損害賠償を尽くしたのであるならば、処分の効力は認めたうえで棄却してあげてもいいというのが立法趣旨です。

事情判決の不適切な活用

 ところが、選挙無効で事情判決というのでは、だれか損害賠償なり損失補償を受けましたか。どの国民が一体補償してもらっていますか。ありえない想定なのです。要するに、最高裁の、選挙は違憲だが取り消さないというのは、事情判決制度を使う場面を間違えているというのが、行政法学界の一般的な理解です。こういうときには行政事件訴訟法の事情判決など使ってはいけないのです。一票の格差が違憲ならば、選挙は端的に無効にしなければいけないというのが、普通の心ある常識的な行政法学者の見解だと思います。

 ところが、最高裁はそれを絶対しないのです。このまま放置すると、結局、憲法判断も行政訴訟も実効性を欠いてしまいます。特に憲法は、権力主体が市民に対して行ってはいけない「べからず集」なんです。こういうことだけはやるな、ということを、いわば人権宣言のさまざまな過去の系譜の中で蓄積してきていますが、それらを反映して日本国憲法もできている。やってはいけないことの禁止事項リストを定めているわけでありまして、これに逸脱しても放置することは許されません。特に憲法14条の法の下の平等原則への違反の疑いの濃い選挙無効については、憲法違反の逸脱を放置することによって、国民代表を不公正なく選ぶという選挙本来の機能を発揮せず、ひいては市民社会の崩壊をもたらしかねないわけです。内閣は、最高裁の法解釈のスタンスを、憲法に厳格に基づく裁判官人事により明確に示すことによって、論点が国民にもむしろ顕在化すると思われます。論点が顕在化した後には、かえって司法の独立性が増大する可能性も高いのです。すなわち、アンタッチャブルの職業専門家集団としての裁判官による司法支配が、無難を旨とする判決をしていることが、かえって法の支配を限定的なものにしているという逆説をもたらしている。この理由のない憲法判断回避の枠組みの負の連鎖は、どこかで断ち切る必要があると思っています。

── もし1票の格差が是正されると、政治家の顔ぶれも非常に変わるのですけれども、いろいろな政治家とおつき合いのある高橋教授は、今の福井教授のお話をどういうふうに思われますか。

高橋 すごくすっきりしていますね。役所のほうと最高裁も役所的なので、本来のことを忘れてやっている1つの例かな。多分すごく素朴に考えても、事情判決というのはすごくおかしい。説明がすごく大変ですよね。確かに違法である。でも選挙は仕方がない。では次にどうするのかがない。立法府のほうもそれに甘んじて、結構それをずっと続けてきたというのがあると思うのです。そういうのはどういう形で直せるのかなと思うと、これもなかなか大変は大変なんでしょうけれども、やはり選挙民の人が、どこかでそういう状態を容認しないというのを示せればいいのかなと思います。