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トーマス・ハバード氏
元駐韓米大使
エイキン・ガンプ・ストラウス・ハワー&フェルド法律事務所 上級顧問

米外交の日本通、粘り強い交渉力

 米外交界を代表する日本通。国務省では東アジア局の日本部長、筆頭国務副次官補などを歴任。キャリア外交官としての締めくくりとして駐韓大使の大役を務め、ブッシュ政権一期目の朝鮮半島政策の一翼を担った。

 1990年代前半はクリントン政権でアジア政策を総括する立場に。その際、腐心したのが日米の人的パイプの再整備。政権の初代国務長官になったクリストファー氏と当時の河野洋平外務大臣の仲を取り持ち、一定の信頼関係を築いた。

 北朝鮮による核開発問題では、米側交渉団の副代表として姜錫柱第一外務次官らとギリギリの交渉を展開。交渉の舞台をニューヨーク、ジュネーブと変えながら、粘り強く米朝協議を続けた。2000年末にクリントン大統領が訪朝を検討した際には、先遣隊として平壌に乗り込んだ。63歳。



トーマス・ハバード氏はエイキン・ガンプ・ストラウス・ハワー&フェルド法律事務所の上級顧問であり、韓国やその他のアジア諸国に関わる問題について、同社のクライアントに助言を提供している。

エイキン・ガンプに参加する以前は、2001年から2004年まで、駐韓国米国大使を務めた。米国務省外交局でのキャリアは39年におよび、主に経済、政治、および軍事分野で東アジア主要国との関係構築に尽力した。駐韓国米国大使に任命される以前は、東アジア太平洋問題担当主席国務次官補を務めた(1993年-1996年も同職に従事)。それ以前は1996年8月から2000年8月まで、駐フィリピン米国大使と駐パラオ米国大使を兼任した。

ハバード氏は1965年に米国務省外交局に入局し、ドミニカ共和国サントドミンゴの米国大使館で政治経済担当官を務めた。その後、日本語の集中教育を受け、日本で2度の任務を果たしたほか、ワシントンでも日本に関わる複数の任務に従事した。在日期間は合計7年におよぶ。パリでは経済協力開発機構(OECD)米国代表部に勤務し、国際エネルギー機関(IEA)の米国代表に助言を提供した。さらにクアラルンプールとマニラの米国大使館で首席公使を務めるなど、豊富な在外経験を持つ。1981年から1982年までの1年間は、ジム・リーチ下院議員(アイオワ州選出)の立法補佐官を務めた。

1980年代半ばからは国務省の上級職を歴任し、日本、朝鮮半島、および東南アジアのASEAN加盟国に対する政策において主導的な役割を果たした。フィリピン担当官、日本部長、および東アジア太平洋問題担当国務次官補として、主要同盟国との安全保障関係の維持と、世界の主要国との貿易関連問題に取り組んだ。1990年代以降は朝鮮半島問題に深く関わるようになり、北朝鮮に核兵器計画の凍結を求めた1994年の枠組み合意では重要な交渉役を務めた。1994年にはクリントン大統領(当時)の命を受けて、北朝鮮上空で撃墜され、捕虜となった米陸軍ヘリコプターのパイロットの解放を求めて北朝鮮を訪問。政府代表団を率いて、北朝鮮入りした初の政府高官となった。この大任を果たすと共に、同年にはミャンマーの大統領特使に任命され、同国の人権と民主主義の発展に尽力した。

1943年、米国ケンタッキー州生まれ。テネシー州とサウスカロライナ州で育ち、アラバマ大学で政治学学士号を取得(1965年)。全米の優等卒業生で構成される「Phi Beta Kappa」会員。メリーランド大学とアラバマ大学より、名誉博士号を授与される。国務省特別栄誉賞(Superior Honor Award)、国防長官民間人功労賞(Medal for Meritorious Civilian Service)受賞。

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