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内容(時系列目次)

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美の文明と落ち着いた社会−2/2

 From : 村上 裕康 2003/02/10 00:52  
 Subj : 【110】美の文明〜リアルな体験による情緒教育
議論を、後戻りして申し訳ありませんが、リアルについてコメントさせて下さい。
【084】中野
でも、多くの人々にとって、テレビの実写は、「現実」の一種です。
では、新聞記事は、現実の伝達でしょうか? 週刊誌の記事は? 実際の記事をもとにした評論は? 歴史評論は? 講談は? ノンフィクションの書籍は? フィクションの書籍は? 手紙は?
確かに、「現実」かもしれません。ただ、受けての「原体験」によって受取り方が違ってくるはずです。

【084】中野
要旨:重要なのは多分、他人の気持ちになって自分を相対化して考えられるかどうかであって、仮想か現実かでは、ないと思います。
いつも、自分を相対化して考えられるでしょうか?自分の子供の死に直面した時、恋をする時、死にそうな思いをする時、 「現実」は相対的なものではなく、自分自身の原体験もしくは人間の原体験に根ざす「現実」であるはずです。

小生がリアルといっているのは、原体験もしくは原体験を形づくる「現実」のことをいっています。

テレビゲームや漫画、アニメ、等の人工的な「現実」が子供達の原体験を形づくる「現実」になってしまうのではないかと危惧します。

それが「現実」の一部ではないか、という指摘もあるかもしれません。
ただ、人工的な「現実」がかなりの部分を占めてしまうと、恐ろしい気がします。

中島さんは、認知科学の立場から、「人間(生物)の認知機構は人間が生活している環境に合わせて発達しています。 従ってそのような自然環境においては、非常にうまく動作しますが、 そうではない人工環境では誤動作することが多く知られています。」と発言されています。

本荘さんからはどのように対処すべきか?と言われそうですが、 極端なものについては規制があってしかるべきだとは思いますが、規制では解決できるとは思いません。また、 IT技術によって解決できるとも思えません。
あえて、提案するならば、教育が情緒を育てるリアルな体験の場を与えていくべきだと思います。

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 From : 中野 潔 2003/02/10 15:32  
 Subj : 【115】人工的な現実の定義
「人工的な『現実』」を定義しないと、議論がいったり来たりするだけだと思います。

村上さんと小生との見解は、それほど違うものだとは思いませんが、定義をしないと、かなり近い考えなのにもかかわらず、 誤解をはさんだまま、水掛け論になってしまいます。

宮沢賢治の詩を読む、夏目漱石の「こころ」を読む・・・。
読んだことで、夜も寝られないほど、呻吟する・・・。

人生を大きく左右するほどの出来事かもしれません。ただし、触覚や、臭覚や、 (肉親との死別のような)おさえきれない感情のほとばしりから離れて、 文字という論理記号で得られた情報で引き起こされたものですから、ワンクッション入っています。

上記が村上さんの言われる「原体験」、人工的な「現実」に入っているかどうかで、論議の進め方が、かなり変わります。
小生の考えと、結論としては大きく異ならないと思いますが、電子会議では、文字列を連ねた論理の積み重ねでやりとりするしかないので、 言葉のカバーする範疇は、定めるしかありませんね。

小生は、上記のような出来事を、一応、「原体験」あるいは「人生の肥やし」に入れています。
【110】村上
小生がリアルといっているのは、原体験もしくは原体験を形づくる「現実」のことをいっています。
テレビゲームや漫画、アニメ、等の人工的な「現実」が子供達の原体験を形づくる>「現実」になってしまうのではないかと危惧します。
これも定義を定めて論議するしかないようです。中学のときに読んだだけでまったく覚えておらず、文学解説書で、 あらすじを再確認したのですが、田山花袋の「田舎教師」という小説があります。

文学解説書によると、土のにおいに囲まれた田舎の教師に赴任した主人公が、東京の文壇、 論壇で繰り広げられているはずの文化論議に加われない、孤独感にさいなまれ・・・という話なのだそうです。

その人にとっては、まわりの農民たちの挨拶や親切や届けてくれる野菜よりも、手紙で東京の有識者と交わす論議の方が、 大切な「現実」になる・・・。

土のにおいに囲まれながら、それから逃避して、頭でっかちに生きる人は明治、江戸の時代からいたはずで、 現在の「人工的な『現実』」の問題点がそれとどう違うか−−をもう少し説明しないといけないと思います。

小生が申し上げたのは、ゲームのような虚構なのか、CNNのような事実の報道なのかは、多分関係なくて、 視聴覚を組み合わせて、人間の処理能力ぎりぎり以上のスピードで吐き出されてくる情報(というか信号)というところに問題があるのでは−−ということです。

それで、子供たちを見ていると、小生には想像がつかないのですが、あの目が回るようなレーシングゲームに合わせて、 ボタンやカーソルが動かせる・・・。あの機器、あるいは、機器の中にあるデータ世界と、手を動かす筋肉と、 状況を把握する目と、空間把握力との組み合わせ回路が形成されている・・・。

でもこれ、パワーショベルの操縦の人が、3軸ぐらいの軸の回転を組み合わせて、 パワーショベルの先を直線的に動かせる(基本が軸の回転ですから、本来は円弧運動のはずが、 組み合わせで直線的に動かせるわけです)−−のと似ているのかもしれません。

そのゲームのような、反射神経と文化上の虚構世界のような複合体での体験が増えて、 土の感触や花のにおいのような体験が減ることが
(1) 今の我々からみるとかなり歪んだ形の人間を形成する、
(2) 今の我々からみて歪んでいても(我々も半世紀前の人間から見ているとかなり歪んでいるはずで)何とかなる、
(3) 自転車に乗れるか否かという反射神経体験の差が、現在の各人間の精神に大きく左右していないのと同じように大した影響はない、
(4) 反射神経への対応自体は精神の成長に中立なのだが、ゲームが、反射神経に頼った、練れていない文化体系なので、 それが精神的経験の中で多くを占めると、精神文化の面で(粗製濫造の小説をたくさん読んだのと同じ意味で)影響がある
−−のいずれか、あるいは、別の、どんな問題を引き起こすのか。

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 From : 福冨 忠和 2003/02/10 20:32  
 Subj : 【117】自然と人工の概念
中野さんの意見にほとんど同意します。以下ものすごく外していますが、思い出したことなど書いておきます。 というのは、ここで交わされている「人工性」「自然」という概念がどうしても不自然に感じるからです。

人間が数千年におよぶ「人工化」の試行錯誤を経て、やっと自然を馴致しているという前提が何かすっ飛んで、 いきなり牧歌的な自然論が前提になっている気がします(それがいいかわるいかは別です)。

中野さんの挙げた田山花袋は奇しくも「自然主義」の代表的な作家ですが、 一般的には原文一致という書き言葉の近代化を経るなかで、田山は「自然」を「発見した」とされます。

近代以前に広く読まれた物語の多くは、一般に有名な人物や知られた出来事を書いたものだったのに対して、 維新以降は無名な人々やありふれた出来事が文学作品に描かれるようになりました。絵画などでも事情は同じです。 (李孝徳『表象空間の近代』新曜社などにその経緯が書かれています。ちなみに、 小説も新聞の事件記事=現在の社会欄の解説=小説)から、当初は、事件の解説だったものが、 徐々に無名の市井人の「いい話」を創作するようになり、無署名の記者の記事から、 署名の作家の文に変わっていった経緯で生まれたようです)

ところで、田山の発見した自然=匿名の風景というのは、それ自体が実は「近代的な転倒」によって後から見いだされたものであって、 太古からあるような「日本的自然」などではもちろん無い、という意見もあります。 (たとえば柄谷行人『日本近代文学の起源』など)

たとえば「カブトムシのいる林」が「自然」的なものの代表となりがちですが、実際にカブトムシが多い、ブナ、 クヌギなどの林は、14,5世紀以降、造成されたものでしょう。人間の住環境近くにカブトムシが多いのは、 17世紀にはすでに栽培が産業化されていたシイタケ栽培や、針葉樹には向いていない炭の燃料化などの需要があったからと考えられます。 つまり、農業(当時のものは農産魚村など、混淆した形式で呼ぶことが一般的なようですが)の必要が人間の側にカブトムシを増やした、 と考えるべきかと思います。カブトムシが減ったのも、明治以降、国の植林政策が、住居用のスギ、 ヒノキなど針葉樹を中心にしたためでしょう。

こういう背景の中で、カブトムシと親しむこと=自然に親しむこと、という例があがってくるのは、 せいぜい自分が子どもの頃体験した人工的な自然を原体験にしているにすぎないわけで、 それ自体が近代以降のかなりいびつな自然観だということもできます。

これは近代社会成立過程で発見された「子ども」という分類についても、当てはまるかと思います。 (アリエスなんかが書いていたと思います)

私はエコロジーの視点は重要視していますが、歴史プロセスに無反省な自然観と同じように無反省な科学技術観がぶつかり合ってしまうような議論には、 ちょっと反感を憶えてしまいます。

ドイツのワンダーフォーゲル運動などの国土的な自然回帰の動きは、ヒトラー政権でも重要な文化政策だったようですが、 そこから「健康的」で「自然」な性教育なども行われました。つまり肉体美礼賛と優性思想ですね。

人間とその環境の関係を単純化して捉えたいという欲望が、自然回帰志向も、 無菌衛生志向も招き寄せるのでは無いかと思います。

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 From : 中野 潔 2003/02/11 21:20  
 Subj : 【122】原初的生活感覚の欠如の問題
村上さんから御指摘いただいていたのに、まだ触れていなかった問題点があったので、触れておきます。 村上さんの危機意識の中核の1つとなる問題であるとも思いますので。
「原初的生活感の欠如」とでも呼ぶべき問題です。
【110】村上
確かに、「現実」かもしれません。ただ、受けての「原体験」によって受取り方が違ってくるはずです。
<中略>
小生がリアルといっているのは、原体験もしくは原体験を形づくる「現実」のことをいっています。
テレビゲームや漫画、アニメ、等の人工的な「現実」が子供達の原体験を形づくる「現実」になってしまうのではないかと危惧します。
それが「現実」の一部ではないか、という指摘もあるかもしれません。 ただ、人工的な「現実」がかなりの部分を占めてしまうと、恐ろしい気がします。
小生の今までの議論が、「精神文化面での成長」といったことを主に念頭に置いていたために、 反射神経の仕掛けへの対応慣れは、精神文化面での成長に多分、中立ではないか−−という論調で話を進めてきました。

反射神経対応を中心に作られた世界に浸る
 →(反射神経対応が悪いのでないが) それに頼って、精神文化の面では練られていない、 人物像が描けていない世界に浸る(CNNの戦争報道ニュースも同じ)
 →登場人物の心の機微に触れ、その気持ちになって悩むような経験は、その世界ではできない
 →精神文化面での成長のための経験が足りなくなる
この点では、いまも変わりません。

で、村上さんが危惧されているように、(このカッコ内は、村上さんの発言ではなく小生の発言ですが、 書籍やレコード鑑賞や紙の上での勉強や)テレビゲームなど、論理、視聴覚だけの世界への接触が増えることで、 「原初的生活感の欠如」が生じやすい状況に、我々、あるいは、子供達が置かれています。

ただ、小生は、このこと自体をあまり脅威に思っていないのです。 (この点、昔の日経デジタルコアへの書き込みと矛盾するのですが) 現在、相対的には、人さらいや、障害を持つ人への肉体的暴力や、火事などが減っており (現状がいい状態だとは決して言っていません)テレビや新聞の表面的取材力は増えているので、 各種の事件がことさらに強調されて報道されますが、阿部定事件をみるまでもなく、猟奇的殺人事件の類は、明治、 江戸から多数発生していたわけで、現在が特にひどい状況だとは思っていません。 少年凶悪犯罪の数自体は、減っているのではないかと思います。

さかきばら の事件、「人を殺してみたかったので殺した」類の事件が大きく報道されるので、 何かとてつもない精神的変化が起きているのではと思われるかもしれませんが、この種の、 生活感覚の絶対的欠如が引き起こす事件は、以前からあったと想像します(データ不足です。ごめんなさい)。

個人的には、ブルドーザーでATMをそのまま持っていくような、どうみても生活経験豊かに思われる (テレビゲームやネットアクセスだけに浸りきっていたとは思えない)犯罪者たちの、確信犯的、大犯罪遂行の方に、 犯罪者の「犯罪感の革新」のような恐怖を感じます。

早稲田で、大学院生、特に学部から直接進学してきた院生を教えていて、彼らの「生活の、あるいは、社会的想像力のなさ」 に唖然とすることがけっこうあります。しかし、これは、小生の区分けでは、「原初的生活感の欠如」の問題ではなく、 「精神文化面での成長」の遅さ、経験の少なさの問題に帰します。
「原初的生活感の欠如」は、都会の、あるいはお城の中の坊ちゃん、嬢ちゃんにおいては、 昔からあった問題ではないかと思います。

で、「テレビゲームが典型であるところの、『機器と操作ボタン、カーソルと その中の論理世界と、空間世界と、 人間の目と手と、反射神経と空間把握力の複合作用』および、それへの慣れ」に、 あまり危機意識を持っていないことの傍証のようなものを若干述べたいと思います。

「頭の中に『回路』ができる」ということがあるのではないか−−と思ったのは、 3X3X3の立方体をぐるぐる回すルービックキューブの6面の色を、30秒ほどで合わせる青年たちをみたときです。 もう30年ほど昔でしょうか。
何百万だか何億だかあるはずの組み合わせのうち、6面の色があった1つの組み合わせに30秒ほどで到達する青年たちがいるわけです。 これは、「頭をひねって」できるものではありません。
「機器とその論理的、空間的世界と、人間の目と手と、反射神経と空間把握力」とがいわば直結するような回路が、 彼らの中にできているとしか思えない。

でもよく考えてみると、そろばんの高段者の頭と手の連動も同じようなものなのでしょう。 将棋を「ソラ」でする人も似たようなものかもしれません。

で、ルービックキューブの名人だからといって、あるいは、そろばんの高段者だからといって、その人に対し、 精神文化の面での成長が遅いだろうと決め付ける人も、速いだろうと決め付ける人もいないと思います。 多分、中立なのでしょう。

テレビゲームの問題点は、「機器とその論理的、空間的世界と、人間の目と手と、反射神経と空間把握力の直結」という点では、ないと思います。
反射神経対応に浸っているときの脳波のパターンの問題が指摘されていました。「ゲーム脳」という奴ですね。 これについては、詳しくないので、どなたかコメントしていただけると幸いです。

テレビゲームの問題点は、「タイムコンシューミングであって、読書や音楽鑑賞などの時間を確実に奪うが、一応、 論理世界の体裁を整えているために、代替を果たしているかもしれないと錯覚させる点でしょう。 しかし、小説の登場人物の心の中を想像して、夜も寝られず、呻吟する−−といった精神文化面での経験をもたらす可能性が非常に小さい・・・。

もちろん、精神文化面での成長をうながすゲーム作品もあると思います。40年前に、さげすまれていたマンガが、 新聞の文化面での評論の対象にまでなってきたのと同じように。

ついでに話を飛ばしてしまいますが、スポーツや武術での鍛錬が、「原初的生活感の欠如」を吹き飛ばすことは間違いないと思いますが、 「精神文化面での成長」も伴うはずだ、あるいは、伴わなければならない−−という論議には、違和感を感じます。
駆け引きの多いスポーツでは相手の気持ちを読む技術が発達するでしょうし、忍耐力も養われると思いますが、 それが「精神文化面での成長」とイコールだとは、思いません。

早稲田の体育会系クラブのシゴキを目にしたことがあるのですが、あれに2年、3年耐えたからといって、 一般社会でいうところの精神的成長を遂げるとは思えませんでした。かえって歪むのはないかと思いました。

静岡県の高校の陸上のトップ選手が、髪を赤く染めていたために、さらに上位の競技会に出られなかったという出来事がありました。 髪を染める→非行につながる といった論理だったと思います。
しかし、歓楽街で酒やたばこに溺れている高校生が、県で1位になれるとは思えません(なったらなったで、また、 全日本級のすごさですが)。
ドーピングしているわけでもなし、走路妨害で勝ったわけでもなし、数字ですべてを決するはずの陸上競技に「品位」論議を持ち込んだことに違和感を感じました。

ああ、情報通信から、どんどん離れてしまいましたね。

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 From : 本荘 修二 2003/02/11 23:34  
 Subj : 【124】美の文明〜現場感の相違
【122】中野
で、村上さんが危惧されているように、(このカッコ内は、村上さんの発言ではなく小生の発言ですが、 書籍やレコード鑑賞や紙の上での勉強や)テレビゲームなど、論理、視聴覚だけの世界への接触が増えることで、 「原初的生活感の欠如」が生じやすい状況に、我々、あるいは、子供達が置かれています。
そうですが、映画や文学といった人工的な創作を否定するのと同じです。 現に、映画のインパクトはゲームのそれを凌駕します。
【122】中野
で、「テレビゲームが典型であるところの、『機器と操作ボタン、カーソルと その中の論理世界と、空間世界と、 人間の目と手と、反射神経と空間把握力の複合作用』および、それへの慣れ」「機器とその論理的、空間的世界と、 人間の目と手と、反射神経と空間把握力」とがいわば直結するような回路が、彼らの中にできているとしか思えない。
携帯電話で頻繁にemailする人々の親指はバランスを欠いた発達をしているとか。そちらの方が、 常習性と人数からしても重要なのでは。「ゲーム脳」よりも優先して取り組むべき課題でしょう。
【122】中野
しかし、小説の登場人物の心の中を想像して、夜も寝られず、呻吟する−− といった精神文化面での経験をもたらす可能性が非常に小さい・・・。
と言われる根拠は? 小生の現場感とは異なります。 クソゲーやbloodyなものもあれば、芸術性のあるものもあります。 書籍、映画、ゲーム、といったプラットフォーム別の論争はこういった脈絡では意味が薄いと思います。

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 From : 中野 潔 2003/02/12 00:31  
 Subj : 【125】美の文明〜分岐点はどこに
【124】本荘
そうですが、映画や文学といった人工的な創作を否定するのと同じです。現に、 映画のインパクトはゲームのそれを凌駕します。
小生は、映画や文学の意義をまったく否定しておらず、むしろ、大切な「一種の原体験」として重要視しています。 人生を大きく変える可能性を秘めているし、実際に映画で人生が変わった人がいると思います。

村上さんのいう「人工的な『現実』」の悪影響とはどのようなものなのか、 「原初的生活感の欠如」や「精神文化における経験の減少」といった造語を作ってみて、探っているだけです。
【124】本荘
携帯電話で頻繁にemailする人々の親指はバランスを欠いた発達をしているとか。そちらの方が、常 習性と人数からしても重要なのでは。「ゲーム脳」よりも優先して取り組むべき課題でしょう。
ブルドーザーを操る名人の技と比べていることからもわかるように、小生は、「機器とその論理的、空間的世界と、 人間の目と手と、反射神経と空間把握力」とがいわば直結するような回路−−を別に否定しては、いません。
それで、自転車に乗れるか乗れないか−−で(個人の)精神文化の発達が変わらないだろうといったことからもわかるように、 そうした回路ができたからといって、回路の存在そのものが、(個人の)精神文化の発達に影響を与えることはないのではないか、 誰か教えてほしい−−といっています。
ただ、ゲーム脳と叫んでいる人はいますので、それについて、詳しい方は教えていただきたいと添えました。
【124】本荘
小生の現場感とは異なります。クソゲーやbloodyなものもあれば、芸術性のあるものもあります。
この点は、ゲームをあまりしない小生の認識の誤りのようです。
ただ、よく読んでいただくとわかるように、マンガが評論の対象になりはじめたように、 ゲームの中にも優れた精神性を備えたものが出てくるだろうと述べています。
【124】本荘
書籍、映画、ゲーム、といったプラットフォーム別の論争はこういった脈絡では意味が薄いと思います。
小生が目指しているのは、プラットフォーム別の論争でなく、その逆です。プラットフォームを横断して、
●虚構 対 現実
●虚構型文化(物語映画、ゲーム、マンガ、小説) 対 報道型文化(ルポ、テレビニュース、新聞記事、論説)
●動画(テレビ、ゲーム、映画) 対 テキスト(新聞、小説) 対 静止画(マンガ、写真)
●自然画(実写映画、写真) 対 描画(アニメ、マンガ、絵画、ゲーム) 対 テキスト
●2次元型(通常のアニメ、マンガ、書割型ゲーム) 対 3次元型(3次元モデリングしてあるゲーム、3次元CADデータ)
●反射神経型 対 ストーリー、性格描写
●インタラクティブ(3次元操作) 対 インタラクティブ(テキスト命令) 対 ノンインタラクティブ
●触覚、臭覚、肉親が死んだときのおさえられない悲しみなど原初的感覚、感情 対 小説、映画、ゲームなどによる擬似人生体験
●対面などによる実在する人との付き合い 対 手紙や電子会議室やオンラインゲームなどによる実在の人との付き合い 対 小説、映画、ゲームなどによる擬似人生体験
●(福冨さんの指摘されたように) 都市近郊の雑木林のような人工的な自然(ハエやカのいない野原) 対 原始林のような自然
−−のどこに、村上さんの感じておられる「人工的な『現実』」の分岐点と、その危惧の根源があるのか、
校條さんの言われた 落ち着いた社会と落ち着いていない社会の分岐点と評価する/評価しないの基準があるのか、 −−を探っていきたいだけです。

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 From : 村上 裕康 2003/02/12 01:26  
 Subj : 【127】人工的な「現実」および原体験
中野さん、福富さん、からコメントをいただきましたが、なかなか論理的な返事を構成できません。
元々の問題提起は次のようなものですが、
【110】村上
テレビゲームや漫画、アニメ、等の人工的な「現実」が子供達の原体験を形づくる「現実」になってしまうのではないかと危惧します。
直感的な発言であるのは事実です。

中野さんからは、”人工的な「現実」”、”原体験”の言葉の定義があいまいでは?
宮沢賢治や夏目漱石などの文学作品は、”人工的な「現実」”の範疇に入るのか?
田山花袋の「田舎教師」に登場する主人公の場合をとりあげて、ある意味で現実から逃避し、 精神的な「頭でっかち」の生活をしている主人公にとって、”人工的な「現実」”を問題にすることに意味があるのか? というご指摘を受けました。

確かに言葉の定義が曖昧でした。仰るとおり文学作品によって精神が触発されることもあると思います。 今までのニュアンスと違ってきますが、”人工的な「現実」”および”原体験”についてコメントさせて下さい。

人工的(もしくは虚構)であるか否かにかかわらず、「現実」がその「現実」に触れる人間の「体験」に影響を及ぼします。 また、その人間にとって「現実」がどのような意味を持ってくるのかは、その人間の「体験」によります。つまり、 「現実」と「体験」が再帰的(リカーシブ)にその人間を作っていきます。
ここで「原体験」という言葉を、人間の遺伝子に焼きこまれた体験と呼ばせて下さい。
人間は生まれながらにして「原体験」を持っています。「原体験」は、地球が誕生し、人類が登場した、 何億年の中で遺伝子の中に焼き込まれたものです。

「原体験」を持って生まれた人間が、どのような環境の中でどのような「現実」に触れて生きていくのかということが問題になります。 子供達がコンピュータゲームというような人工的(あえて人工的という言葉を使っていますが、 この場合コンピュータゲームの場合に限って使っています。)世界に埋没して育っていく場合、 「原体験」とは相容れないのではないかという危惧です。

中野さんは、「精神文化面での成長」という論点から議論されましたが、「精神文化面での成長」というのは、 上で定義した「原体験」と相通づるのではないかと思います。
【122】中野
ただ、小生は、このこと自体をあまり脅威に思っていないのです。
と仰られていますが、子供達が圧倒的に多くの時間をコンピュータゲームに費やして (「原体験」に触れる「現実」にほとんど触れることなく)、このような世界に埋没することは危険だと思います。 コンピュータゲームで再現される人工的な世界は、「原体験」と異質だと(直感)思うからです。

コンピュータゲームで要求される反射神経をとりあげていますが、反射神経そのものについてはそんなに問題だとは思いません。 ただ、暴力や強烈な刺激などが作られた世界の中で再現され、そのような環境に多くの時間、 身を置くことが問題だと思います。

福富さんからは、「人工」と「自然」という対比での議論に対して、コメントをいただきました。
ご指摘のように、我々が「自然」と称しているものも、人間が「人工的」に作ってきた自然かもしれません。
「人間が数千年におよぶ人工化の試行錯誤を経て、やっと自然を馴致しているという前提が何かすっ飛んで、 いきなり牧歌的な自然論が前提になっている気がします。」とコメントされています。
ご指摘のようなきらいはあるかもしれません。ただ、小生が「人工」と対比して「自然」といっているのは、地球が誕生し、 人類が登場した、何億年のにもわたる歴史の中で遺伝子に焼き込まれた「原体験」のことを言っています。
。。。。。
今回の議論と直接関係はないのですが、「自己組織化と進化の論理」、スチュアート・カウフマン著、米沢冨美子監訳、 日本経済新聞社発行、を紹介します。生物進化の歴史は、ダーウィン的な自然淘汰による進化だけではなく、 混沌の中から秩序を生み出す自己組織化があったと議論しています。
この本の中から次の一節を紹介します。

「われわれの最善の努力が最後には先の見えない状態に変わってしまうのなら、どうして努力する必要があるのか。 なぜなら世の中がそうなっているからであり、われわれはその世の一部だからである。生命とはそういうものであり、 われわれは生命の一部なのである。われわれのような、生命の歴史の中でずっと後になって生まれた歴史の役者は、 およそ40億年もの間生物が拡大していった生命の長い歴史の相続人である。その過程に深くかかわることが、 畏敬の念に値せず神聖なものではないというなら、それ以外に神聖なものがあるだろうか」

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 From : 福冨 忠和 2003/02/12 02:26  
 Subj : 【128】美の文明〜違和感
村上さんのポストにあんまりつっこむつもりはありませんので、最後にしますが、 一部だけ違和感があったのでそこだけ書いておきます。

「遺伝子に焼き込まれた原体験」という言い方はわかるんですが、 そこでカウフマンとかオートボイエーシスとかブリゴジンとかが出てきちゃうと、村上さんの主張と逆になりませんか?

彼らが言っているのは、単純化すれば、マクロレベルでは自然も人工的なものも、同じ原理で生まれてきているようだ、 という一般理論的な包摂だと思います。人工的なものも自然の原理に従っているというわけですよね。

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 From : 唐澤 豊 2003/02/12 15:58  
 Subj : 【135】美の文明〜重要なのはバランス
校條さんの投げかけに応じて、議論が発展していますね。
どこで入ろうかと思っておりながら、ずっとROMとなっており、タイミングを逸した感がありますが、割り込んでみたいと思います。
【125】中野
ただ、ゲーム脳と叫んでいる人はいますので、それについて、詳しい方は教えていただきたいと添えました。
この点について、言及された方がおられないので、以前、ゲーム・ビジネスに携わった者として、 ここで言われている「ゲーム脳」のことかどうかは定かではありませんが、私が知っている範囲で申し上げます。

欧米では、特に母親は、ビデオゲームは百害あって一利無し、という考え方の人が多く、 ゲームのハード&ソフトを売る立場からすると、苦労しておりました。追い討ちを掛けるように、テンカンを起したとか、 気分が悪くなったとかいったことも報告されたり、訴訟されたりといったことが増えて来ました。
そこで、何か良いことはないかと、色々な実験がなされたわけです。

その中で、ゲームに集中していると、脳波が通常のアルファ波からベータ波に変わる、という傾向が見られたという報告がありました。 ベータ波になるということは、集中力が高まるということになり、 勉強の合間にちょっとゲームをやることは良いことだと言える、ということで、この話が営業面で活用されていたと思います。

その裏づけとして、30代、40代のビジネスマンで、仕事に行き詰まった時や、発想が浮かばない時には、気分転換として、 ボードゲームのような単純なゲームをやると集中力が高まる、という意見もありました。この場合、肝心なことは、 テトリスのような単純なゲームを短時間やるということで、RPGのようなものをだらだらとやるのでは意味がありません。

私が知っているのは、これくらいです。
【125】中野
小生が目指しているのは、プラットフォーム別の論争でなく、その逆です。プラットフォームを横断して、
●虚構 対 現実
<中略>
−−のどこに、村上さんの感じておられる「人工的な『現実』」の分岐点と、その危惧の根源があるのか、
校條さんの言われた 落ち着いた社会と落ち着いていない社会の分岐点と評価する/評価しないの基準があるのか、 −−を探っていきたいだけです。
なるほど、中野さんが探求されたいのは、広大な範囲になりますね。
これらを全部網羅するには、長い時間の議論と研究が必要になるでしょうから、大学での課題として頂ければ面白いと思います。

皆さん方の中で、既にお読みになった方も多いかと思われますが、レッシグさんは「コモンズ」で著作権について語る時に、 3つの世界に分けています。

(1)アイディアの世界:無限の世界
(2)モノなど物理的な世界:有限の世界
(3)サイバー世界:1と2の中間的でどちらかと言えば1に近い世界

私は、これを校條さんが投げかけた「美の文明と落ち着いた社会」というテーマを考える時に当てはめたらどうかと思います。 そうすると、中野さんの言われる分岐点は少なくなり、考え易いのではないかと思います。

レッシグさんの定義をもう少し考えてみると、
(1)は、発想、想像、創造など精神的な世界でこのままでは残念ながら現代人は他人と共有できない世界です。 60億の人が何を考えるかは自由ですから無限の世界です。
(2)は、自然物質で構成された現実の世界と人工創造物の他に、アナログメディアに(1)を記号化させたりして付帯させた創作物(著作物)も入れることができます。 これらは全て物理的なモノなので、有限の世界です。
(3)は、(1)や(2)をデジタル記号化した創作物や情報です。どんなにコピーしても減らないので、無限の世界と考えることも出来ます。

人間の脳は外部からの刺激によって学習し成長すると言われております。 ここでの議論は、主に(3)だけの刺激体験で歪んだ人間にならないのか? (2)による刺激をもっと体験しなければいけないのではないか?ということかと思われます。 答えは簡単で、両方体験しなければならない、そのバランスが重要、ということではないでしょうか?

単純化し過ぎましたでしょうか?

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 From : 中野 潔 2003/02/12 16:12  
 Subj : 【136】美の文明〜何が問題なのか
【127】村上
「現実」と「体験」が再帰的(リカーシブ)にその人間を作っていきます。
理解できます。
【127】村上
人間は生まれながらにして「原体験」を持っています。「原体験」は、地球が誕生し、人類が登場した、 何億年の中で遺伝子の中に焼き込まれたものです。
この部分、小生は触れないことにします。水掛け論にしかなりませんから。
【127】村上
中野さんは、「精神文化面での成長」という論点から議論されましたが、「精神文化面での成長」というのは、 上で定義した「原体験」と相通づるのではないかと思います。
かなり違います。たとえば小生の「原風景」の1つは、湘南電車での通学のときにみた、夕陽に映える富士山です。 これは多分、小生が人生に疲れたり、人とのやりとりでひどく傷ついたときなどに、 子供の気持ちに戻って癒されるための「装置」になると思います。
しかし、小生が一人前の社会人として認められるか否か、変な奴だと思われるか否か−−とは、まったく結びつきません。

小生のいう、「精神文化面での成長」とは、実在の家族や親戚や教師との付き合いや、動植物の養育や、映画、小説、 ゲームなどでの人生疑似体験の中で、他人や社会や「自然」をおもいはかる、成熟した社会人に育っていくことを意味します。
【127】村上
暴力や強烈な刺激などが作られた世界の中で再現され、そのような環境に多くの時間、身を置くことが問題だと思います。
この危惧は、理解できます。
そろばんの操作、自動車の運転、テレビの視聴などは、暴力あふれるテレビゲームと程度が違うかもしれませんが、 数万年来の人間の生来の性質とは、かなり異質のものだと思います。
そこ(機械という存在そのもの、あるいは視聴覚機械という存在そのもの)が問題なのか、
子供なのに暴力や性に関する行動が疑似体験できてしまうことが問題なのか、
本来、生身の人間のみを相手にするなら、段階的に発展(抑制を含め)するはずの、暴力行動、 性行動においてあたかも世界の主のように相手を完全に支配できるように感じさせる仕組みが問題なのか、
(CNNニュースやテレビゲームなど)情報を吟味させる余裕を持たせない、過剰刺激の継続が問題なのか
−−どれでしょうか。

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 From : 校條 諭 2003/02/12 18:12  
 Subj : 【141】美の文明と落ち着いた社会〜テーマの真意
【135】唐澤
校條さんの投げかけに応じて、議論が発展していますね。
投げかけた本人がその後さっぱり発言せず、恐縮しております。(インフルエンザにかかって1週間寝込んだため・・・ というのは言い訳になりませんが・・・)

もともと私が「落ち着かない社会」だなあ、と感じたのは、別記のような例です。
仮想現実のテーマは、実はあまり想定しておりませんでした。

テーマを表現するのがむつかしいのですが、時間概念の変化(瞬間思想とでも言ったらいいのでしょうか)や、 個人を分断的に管理・操作する技術の発達とでも言えばいいでしょうか。こらえ性やメリハリのない社会です。

例:
◆「こらえ性のない消費者」仮説を前提としたサービス(いつでも欲しいと思ったときに・・・ さまざまな場面でのかんばん方式の普及)
○コンビニの年中無休・24時間営業
○宅配便の翌日配達・時間帯指定
○スーパーの営業時間延長、元日営業

コンビニは、人を雇ってはいても、オヤジはあたかも24時間労働だと言われています。
コンビニに弁当を納入している会社の主婦パートの例が最近の小説に載っているそうです。 夜中の12時から朝5:30までの労働で、途中トイレも自由に行けないそうです。

昭和40年代だったと思いますが、自民党が「家庭基盤政策」というものを出してきました。そこで描かれる家族像は、夕方、 父親も早く帰宅して、家族そろって夕食をとる団らんの光景でした。しかし、宅配便を翌日に届けるためには、 夜中に高速をひた走っている「家族の一員」がいるはずです。
また、コンビニで未明に弁当を作っている主婦は家族のために食事をつくれるでしょうか。

◆せわしい生活、メリハリの喪失
○メール依存症
○ところかまわずの携帯利用
○先回り(ユビキタス?!)マーケティング(どこにいても先回りしてプロモーション情報が追いかけてくる)

私自身、ひどいメール依存症です。外出中でも、ノートパソコン(1kg)を持ち歩いて、電車の中、地下鉄のベンチ、 喫茶店などで始終メールチェックをしています。その結果、大きな課題、長期のテーマよりも、 そのときに来たちょっとした用件に返事を書くということが優先されて、たいへん落ち着きのない生活になっています。 もちろん「心がけ」である程度改善できるとは思いますが。

携帯については、さすがにクラシックの演奏会で鳴らす人は見たことがありませんが、講演会などではざらです。 思い出すのは、いま有名ネット企業の社長の若い人ですが、数年前、発注者である私とうちあわせをしている途中で かかってくる携帯に当然のように出るので、「うちあわせ中は切っておいてくれませんか」と言ったところ「えっ、 どうしてですか?便利じゃないですか・・・」と答えたのです。

マーケティングの例で言えば、駅の自動改札をくぐったとたんに携帯に“役に立つ”情報が送られてくるとか、 スーパーに行って駐輪場に自転車を置いて店内に入ると、その人向きの店内キャンペーン情報が携帯に送られてくる ・・・とかです。もちろん、それぞれパーミッションが前提ではありましょうが。
私は、私自身のパーミッションで取り始めたメルマガの大洪水で、最近ろくに見なくなってしまいました。 DMフォルダーに直行ですが、やはり気持ちは落ち着きません。

さて、たまたま人に聞いたところ、フランスでは都市部でも、日曜日はかなりの店が閉まっているそうです。
私が社会のビジョンを持ちたいと言ったのは、コンビニは23時まででいいじゃないか、元日はスーパーは休んで、 3日初売りでいいじゃないか・・・といった技術以前の社会イメージを持ちたかったのです。
街の「景観」や自然の話を出したのでミスリードした面があったかもしれませんが・・・。

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 From : 校條 諭 2003/02/12 22:40  
 Subj : 【143】美の文明と落ち着いた社会〜モダンタイムズ
補足します。
私の提起したテーマは、ネットワーク社会の「モダンタイムズ」かもしれないと思いました。
チャップリンのモダンタイムズは、生産におけるオートメーションがテーマでしたが、今度は、 消費における「即時反応処理」(もっとうまく言えるといいのですが・・・)とは言えないでしょうか。
工場オートメーションでは、当初はいまよりもずっと人間の手が必要でした。
そして、その労働者は一方で製品の消費者としても期待されるようになりました。 T型フォードの普及ストーリーはまさにそうでしょう。
工場労働は、二交代や三交代という労働形態も生み出したのですが、典型的には、日中の労働が基本で、 家族揃って余暇時間を過ごすというスタイルが実際に主流になったのだと思います。 製造業における労働組合の発達もそういった秩序形成に寄与したと思われます。
それに対して、消費における即応処理の世界では、工場における生産現場と消費という場の特性の違いから、 そのような基本スタイルへの志向が薄く、「こらえ性のない消費者」にひたすら即時対応していく動きが歯止めなく進んでいるのではないでしょうか。 大規模集中労働の製造業と違って、労組の守りもない分断臨時低賃金労働がそれにあいまっていると言う気がします。

次の社会のビジョンの基調は、はやり言葉と期せずして同じになってしまいますが、 「スローライフ」ということではないかと思います。ただし、個人の心がけや志向の次元でなく、 社会的なコンセンサスとして定着させ、技術の使い方もそのために役立つように誘導していくということではないでしょうか。

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 From : 村上 裕康 2003/02/13 00:18  
 Subj : 【146】美の文明〜カウフマンの自己組織化の目的
カウフマンの本を紹介しましたが、今回と直接関係があるわけではありません。 ただ、今回のテーマについて進化論的にみたらどのようになっていくのだろう、というような事を考えていた時に、 たまたま本屋でカウフマンの本を目にして手に入れたのです。
【128】福冨
遺伝子に焼き込まれた原体験」という言い方はわかるんですが、 そこでカウフマンとかオートボイエーシスとかブリゴジンとかが出てきちゃうと、村上さんの主張と逆になりませんか?
彼らが言っているのは、単純化すれば、マクロレベルでは自然も人工的なものも、同じ原理で生まれてきているようだ、 という一般理論的な包摂だと思います。人工的なものも自然の原理に従っているというわけですよね。
カウフマンは、複雑系の科学において「自己組織化」の数理モデルを作り出し、このモデルを使うことによって、 様々な自然現象や社会現象を説明できることをコンピュータシミュレーションで示しました。 生物の進化についてもあるいは経済現象といった人工的なものについても、「自己組織化」の数理モデルがあてはまる、 ということをいっています。同じ数理モデルがあてはまるということは数理モデルの汎用性を示すにすぎません (数学が物理に対しても、経済に対しても、あるいは数理科学に適用できるように)。複雑系の理論は、 数理モデルとして自然現象についても社会現象についてもあてはまるはずです。

私が、興味を持ったのは、カウフマンがいうように「生物の進化がダーウィン的な自然淘汰による進化だけではなく、 むしろ混沌の中から秩序を生み出す自己組織化によって進化が進んだ。」というならば、 自己組織化の目的(何に向かって最適化をするかの目的関数)は何か?ということです。カウフマンの本からは、 読み取れなかったのですが、それが”神の意図”であっても??と思ってもみたのです。

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 From : 村上 裕康 2003/02/13 00:56  
 Subj : 【148】美の文明〜疑似体験のみであることが問題
”美の文明と落ち着いた社会”をテーマとしてあげた校條さんも戻ってこられたのですが、 だいぶ寄り道をしてしまったようです。
【136】中野
そろばんの操作、自動車の運転、テレビの視聴などは、暴力あふれるテレビゲームと程度が違うかもしれませんが、 数万年来の人間の生来の性質とは、かなり異質のものだと思います。
そこ(機械という存在そのもの、あるいは視聴覚機械という存在そのもの)が問題なのか、
子供なのに暴力や性に関する行動が疑似体験できてしまうことが問題なのか、
本来、生身の人間のみを相手にするなら、段階的に発展(抑制を含め)するはずの、暴力行動、 性行動においてあたかも世界の主のように相手を完全に支配できるように感じさせる仕組みが問題なのか、
(CNNニュースやテレビゲームなど) 情報を吟味させる余裕を持たせない、過剰刺激の継続が問題なのか
−−どれでしょうか。
”子供なのに暴力や性に関する行動が疑似体験できてしまうことが問題”が一番近いと考えます。

これまでの長い歴史の中で、人間は戦争や暴力を体験してきたし、これからも繰り返されると思います。これらの体験は、 周囲のあらゆる環境(憎しみ、愛、欲、家、友人、家族。。。)というお膳立てがあっての体験です。
一方、コンピュータゲームによる体験は、「原体験」からするときわめて断片的で不完全な体験だといえます。 決してコンピュータゲームを否定しているわけではありませんが、 子供達にとって「原体験」を触発されるような体験をほとんどしないで、コンピュータゲームによる擬似体験を繰り返すならば、 問題であると考えます。

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 From : 中野 潔 2003/02/13 01:56  
 Subj : 【149】美の文明〜問題と分岐点
【148】村上
これまでの長い歴史の中で、人間は戦争や暴力を体験してきたし、これからも繰り返されると思います。これらの体験は、 周囲のあらゆる環境(憎しみ、愛、欲、家、友人、家族。。。)というお膳立てがあっての体験です。
一方、コンピュータゲームによる体験は、「原体験」からするときわめて断片的で不完全な体験だといえます。
小生の問題意識と、そうは、違っていませんでしたね。
小生の言葉でいえば、「原初的生活感が欠如」したまま、「死」や「愛」を「機能」として「操作」してわかった気になってしまう−−という危険ですね。

で、死や愛を描いた小説を、「原初的生活感が欠如」したまま、読むことは、源氏物語を読む平安貴族の坊ちゃん、 嬢ちゃんの時代からあったのですが、やはりそれは、他者の経験の、脇から見た追体験であって、
「死」や「愛」を「機能」として「操作」してわかった気になってしまう、
自分で、(変な言葉ですが) 操作的に経験した気になってしまう、
−−というものでは、(小説というものは)多分、ありませんでしたものね。

分岐点 (is / is not) は、実は、インタラクティブ 対 流れるストーリー だったのでは、ないでしょうか。

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 From : 福冨 忠和 2003/02/13 06:18  
 Subj : 【154】美の文明〜自己組織化
もう返信しないなどと書いたのですが、やっぱり村上さんの論理が微妙にトートロジカルな気がするので、 私の理解している範囲で書いておきます。

村上さんの言うカウフマンの考え方はイリヤ・ブリゴジン(『混沌からの秩序』)なんかの進化論への展開ですよね。 ちなみに生理・生物学方面での自己組織論は、ウンンベルト・マトゥラーナのオートボイエーシス(自己組織論)からきていると思います。

で、カオス理論とかセルラオートマタみたいなものでもそうでしょうけど、 先験的にあるような「目的に向かって最適化」するようなネガティブフィードバックを前提しないところがミソかと思います。

ブリゴジンはたしか「蟻塚」のケースをあげていました。つまり蟻は蟻塚を作ろうとしたんじゃなくて、 一匹一匹の蟻のごく単純な反射的行為の繰り返しの結果、偶然出来るのが蟻塚だ、という考え方です。 『資本論』の「最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさる」という例の逆のケースです。

こういうポジティブフィードバックをロボティクスに応用したのが、状況的ロボティクスなどの考え方ですよね。 目的地に向かって間違いと修正を繰り返していくようなネガティブフィードバックではなく、 状況への反応を関数的に繰り返すだけのものでも、ブライデンブルグの「心を持つ模型」みたいに、 ようするに知能など無くても、「生き物らしさ」は発生する、という。 (逆に、ネガティブフィードバックのプロセスを集積していくと、人工知能のようなものになってくるわけでしょうね)。

つまり神の意図とか目的とかが特に無いようなのに、自己で(自動的に)組織する機構のレベルを一般に自己組織化と呼んでいると思います。
だからどうだ、という話でもないのですが

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 From : 唐澤 豊 2003/02/13 11:35  
 Subj : 【156】時間のけじめをつけ、自分でコントロールできること
【141】校條
もともと私が「落ち着かない社会」だなあ、と感じたのは、別記のような例です。 仮想現実のテーマは、実はあまり想定しておりませんでした。
テーマを表現するのがむつかしいのですが、時間概念の変化(瞬間思想とでも言ったらいいのでしょうか)や、 個人を分断的に管理・操作する技術の発達とでも言えばいいでしょうか。こらえ性やメリハリのない社会です。
なるほど。そうだとすると、議論が本題から少し逸れて来たということですね。
【141】校條
  さて、たまたま人に聞いたところ、フランスでは都市部でも、日曜日はかなりの店が閉まっているそうです。 私が社会のビジョンを持ちたいと言ったのは、コンビニは23時まででいいじゃないか、元日はスーパーは休んで、 3日初売りでいいじゃないか・・・といった技術以前の社会イメージを持ちたかったのです。
私は、フランスに時々行っておりますので、ビジネス旅行者の目からすると、土日に店がオープンしていないと、 不便だなと思うことはあります。
フランスはまだ良いとして、ドイツは(現状は知りませんが、私が行った10年位前は)、土日は殆どの店が休みという徹底ぶりでした。 空港とホテルはやっていますが、空港職員も時間が来たら、 スケジュールの遅れで乗り継ぎができなかった客の手続きなどで多くの人がカウンター前に並んでいても、 さっさと帰りましたね。

両国とも、労働者の立場が強い、ということではないかと思っております。
年間の休暇もドイツは6週間が当たり前ということでした。
フランスは6週間だったのを8週間に変えたら(もしかしたら私の勘違いで4>6だったかも)、 それでは余りにも企業の国際競争力が落ちるということで、元に戻すという議論がされているとか、 合意されたとかいうことです。

また出典を忘れましたが、別の情報では、モバイル・コンピューティングが様々な場所で利用可能になったとしたら、 どうしますか?というアンケートに対して、多くの欧米の利用者は、便利になって良いから是非利用したい、 という回答だったのに対して、フランス人だけは、オフィス以外で、仕事をするつもりはないから、 例えそうなっても利用しない、という回答が多かったとのことです。

それから、フランスでは、採用に当たり、試用期間が6ヶ月(だったと思いますが、3ヶ月だったかも知れません)ありますが、 それは採用側のためだけではなく、採用される側も、こんなはずではなかった、という時にいつでも辞められるように、 こうした期間を設定しているということでした。日本でも以前は試用期間を設定している大企業が多かったと思いますが、 それは採用企業側が、期待以下の能力である新人はいつでも辞めさせることができるためにあったように思います。

これらのことから言えることは、働く時間、家族と過ごす時間、余暇・休暇の時間などをきちんと自分でコントロールできるように自立している、 ということではないかと思います。
当然のことながら、もっと働く時間を増やせば収入は増える、ということは判っていても、お金だけが重要ではない、 ということを、相互の侵略戦争等の長い歴史の中で理解しているのではないかと思います。

また、皆さんの周りでも、残業や休日出勤など、あくせくせず、悠々と仕事をしている人も意外にいると思いますが、 そういう人は時間管理が上手い、そして常に優先順位を考えて仕事をしているということだと思います。
それが出来なくて、あくせく、せわしなく生きている人は、家庭や余暇も含めた優先順位が付けられないのだろうと思います。

かく言う私もメール依存症のきらいはありますが、私の持論は「時間外や休日でもメールを見て、 重要なものは処理しておけば、精神的に楽で、却って見ないと、あれはどうなっただろうか? 等とやきもきすることの方が精神衛生上悪いと思っているので、時間がある時には常にメールは見ておく」というものです。

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 From : 富沢 木実 2003/02/17 16:41  
 Subj : 【221】美の文明と落ち着いた社会
ユビキタスの議論を呼んでいて、急にこちらに書きたくなりました。
校條さんの問題意識とは異なるのですが、ユビキタス社会になると、見えないし、聞こえないのだけど、 騒々しい社会になるような気がしたのです。

私は、お盆の頃になると、お墓から、先祖が出てきて、見えないけど、 私たちの周りをうろうろしているのではないかということを想像して楽しくなります。過去の人や動物が全部うろうろしていたら、 さぞかし混雑しているのだろうと思います。中には、遅刻しそうだとあわてているお化けも居るでしょうし、 ラッシュアワーどころではないと想像します。私が見えていない次元の世界がふくらんでいるように思えます。

今でも、携帯電話やメールで見えない電波が多くの人々の間を赤い糸、白い糸、黒い糸を紡いでいるのでしょう。 スパイ映画などで、見えない電子ビームが特殊なめがねをかけると見えますが、こんな感じなのでしょう。
これがユビキタスになったら大変です。あちこちに埋め込まれたコンピュータがそれぞれおしゃべりをする。 キリン端麗とアサヒの純生のチップが暑い日には、勝手に値段を上げたり、寒い日には、値引き競争をしたり、 うめきあったり。

ドリトル先生ではないですが、これらの言葉が聞こえたら、さぞかしうるさいことと思います。もっとも、日本人は、今でも、 五感をとぎすまして、風の声、虫の声などを聞いているのですから、慣れればなんてことないのかもしれませんが。 五感を研ぎ澄ましたなかで、気持ちを集中させるのが昔の修業僧だったのでしょうから、却って落ち着くかもしれませんね。

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