おかわり 雛とべに花と冷たい肉そばの里・河北町



かほく冷たい肉そば研究会の「おやどり姉妹」
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かほく冷たい肉そば研究会の「おやどり姉妹」

 7月13日と14日の2日間、山形県河北町のサハトべに花駐車場で「山形ご当地グルメフェスティバル2013 in かほく」が開催されました。

 B−1グランプリにも出展する、横手やきそばサンライ’S「大曲の納豆汁」旨めもの研究会石巻茶色い焼きそばアカデミー浪江焼麺太国甲府鳥もつ煮でみなさまの縁をとりもつ隊山形芋煮カレーうどん寄合の愛Bリーグ所属6団体と地元山形県と隣接する秋田県の団体が自慢のご当地グルメを提供。集まった多くの来場者に「わがまちの魅力」をアピールしました。

板そば
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板そば

 ホストの河北町も、会場内だけでなく、町内の多くのそば店がご当地グルメ「冷たい肉そば」を提供してもてなしました。

 そばは芋煮や玉こんにゃくなどと並ぶ、山形県を代表する食文化です。ひとくちに山形県のそばといっても、様々な食べ方があります。

 たとえば板そば。板や箱など、大きないれものに薄く盛りつけたメガサイズのそばです。かつて農作業の合間などに大人数でそばを食べた名残りなのだとか。

月山そば
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月山そば

 箸をのばしてそばをとり、そばつゆに漬けて食べる「盛りそば」のスタイルです。

 山形市や河北町のある村山地域と日本海に面した庄内地域との分水嶺になる月山のそばは、冷たいもりそばが山菜やきのこがたっぷり入った鍋と一緒に出てきます。熱々のスープを椀に盛ったそばの上にかけて食べるスタイルです。

 今回、初めて月山そばを食べたのですが、大量の山菜は食べきれないかと思ったほどです。出しは具の山菜がメインで、薄味がとても印象に残りました。

かほく冷たい肉そば
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かほく冷たい肉そば

 そして河北町が発祥の地である「肉そば」。歯ごたえのある親鶏の肉を具に鶏出しの汁をかけて食べる「かけそば」のスタイルです。

 その汁を冷たくしたのが「冷たい肉そば」。昆布出しとも鰹出しとも明確に違う鶏出しの「肉そば」は、麺こそ日本そばですが、冷やしラーメンにも似た感覚です。

 河北町のそば店の多くでは、日本そばの代わりに中華麺を使った「肉中華」も提供していいて、実は僕、この「冷たい肉中華」が大好きでなんです。今回もイベント会場近くで店を見つけて飛び込んでしまいました。

にぎりばっと
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にぎりばっと

 そうそう「山形ご当地グルメフェスティバル2013 in かほく」では河北町の北にある大石田町の「にぎりばっと」も食べることができました。

 そばを切るのではなく、団子にして食べる大石田町の伝統食です。そばはそもそも献上するもので、庶民が食べるのは「御法度」とされていたことから「はっと」と呼ばれ、そばと分からないように握って食べるから「にぎりばっと」なのだそうです。

 山形県のそば文化って、奥が深いんですね。

山形県の県花・紅花
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山形県の県花・紅花

 近年は「冷たい肉そば」のまちとして知名度を上げている河北町ですが、町のキャッチフレーズは「雛とべに花の里」。寒暖差が激しい盆地の気候が紅花栽培に適していたことと、日本海の酒田に通じる最上川の水運とが合わさり、紅花の集積地として栄えました。

 河北に集まった紅花は、酒田で北前船に積みかえられ、敦賀に上陸、琵琶湖や淀川を経由して京都・大阪に送られ、大きな富をこの地にもたらしました。河北町内をめぐると、今も大きなお屋敷がたくさん残っています。

紅花資料館
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紅花資料館

 河北を代表する豪商だった堀米四郎兵衛の屋敷跡は、現在「紅花資料館」になっています。イベント会場からほど近い資料館にも行ってきたのですが、それはそれは大きなお屋敷でした。

 紅花がもたらしたのは富だけではありません。上方の文化も紅花を運んだ帰りの北前船に乗せられてきました。館内には高価な紅花染の着物とともに、豪華な人形も展示されています。これが「雛とべに花の里」の由来です。

 最上川の恵みは、平地が広がるこの地域に米作も発達させました。町内の至る所に水田が広がり、中心地には酒蔵もあります。

さくらんぼ
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さくらんぼ

 河北町の町の花は紅花ですが、町の木はさくらんぼです。盆地は寒暖差が大きく、それが果物の甘さを育みます。さくらんぼのシーズン直後と言うことで、たわわな実りこそ見ることができませんでしたが、まだ町の中には採りたてのさくらんぼがたくさん残っていました。

 食にも酒にも文化にも恵まれた河北町は、食いしん坊には魅力的な観光地と言えます。町内に鉄道駅がないため、車でないと不便なイメージがありますが、中心市街地から最上川を渡れば、山形空港。空港の向こう側、滑走路に寄り添うように走る山形新幹線のさくらんぼ東根駅も近くです。

昨年の谷地どんがまつりの模様
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昨年の谷地どんがまつりの模様

 今回「山形ご当地グルメフェスティバル2013 in かほく」が開催された河北町の中心市街地では、9月の3連休に「谷地どんがまつり」も開催されます。

 谷地八幡宮の大祭で、境内で奉奏される舞楽は、1000年以上の歴史を誇り、日本四大舞楽の一つに数えられています。奴を先頭に、囃子屋台など約1キロにわたる行列も見所です。荷台がステージになったトラックが、豪華さを競うかのように連なる様子には、この地がいかに豊かだったのかを実感できるでしょう。

 いいですよ、河北町。ぜひまた行きたいまちです。

(デスク)

2013年7月19日


小樽あんかけ焼そばルーツ探し

小樽あんかけ焼そば親衛隊 江頭進会長


(1)梅月


梅月(昭和50年代:志佐公道氏提供)
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梅月(昭和50年代:志佐公道氏提供)

 小樽は函館と並ぶ北海道の中華料理のルーツである。貿易港でもあったため早くから和洋中の料理が採り入れられ、小樽の街の全盛期を彩った。その流れの中で、小樽中央ホテルの中華部料理長として近藤章司氏が東京白石会より赴任したのが昭和12年(1937年)のことであった。近藤氏の招聘は、当時の有力ホテルだった北海屋ホテルに対抗するための切り札だったとも言われている。

 近藤氏は、昭和21年(1946年)に稲穂町龍宮神社下にあった「割烹梅月」の店舗を買い取り、中華料理店を開く。その後、昭和32年(1957年)に静屋(静親)通り(現長崎屋小樽店裏)に移転する。そして、2代目の近藤祐司氏の代に最盛期を迎える。昭和44年(1969)の火災の後、新築した店舗は1階ホールが40席、2階の宴会席は80人を収容可能な名実ともに小樽随一の中華料理店であった。

 昭和47年(1972年)から、梅月で働き始めた鈴木幸安氏(現華舟店主)によると、梅月はそれほど敷居の高い店ではなく、小樽市民のみならず観光客にも親しまれていたという。折しも加藤登紀子の「知床旅情」が大ヒットし、北海道をリュックサックを背負って旅をする「カニ族」と呼ばれた旅行者が急増する。梅月にも「カニ族」が押しかけ、入り口横にリュックサックを積み上げて食事をしていたという。

梅月1階店内(志佐公道氏提供)
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梅月1階店内(志佐公道氏提供)

 梅月のあんかけ焼そばは、コーヒーを薄めたような透き通ったあんの中に胡椒が利いた塩味。これは当時は、醤油が貴重品であり、多く使えなかったためだという。麺は生蒸し麺で、きつね色になるまで7、8分蒸した後、 1週間おいてから調理する前にさっとゆでて戻したものだった。あらかじめ麺を準備しておくのは、大量の注文に素早く対応するための工夫という。

 小樽三大祭りの水天宮、龍宮神社、住吉神社の祭りのときは、料理人総出で朝から仕込みを行ったという。焼そば一つをとっても、大きなテーブルの上に 20枚ほど皿を並べて、その上に麺を載せあんをかけていくという作業を何十回と繰り返した。鈴木氏は、夜遅くまで、肩口が服に擦れて腫れあがるほど料理を作り続けたと回想している。

 梅月は単に繁盛した中華料理店というだけではない。小樽と北海道の中華料理普及の中心であった。長年にわたって、日本中国料理協会小樽支部の研修会場でもあり、近藤氏の監督の下、多くの料理人が集い研鑽を重ねた。近藤氏を始めとして梅月の料理長たちは厳しくはあったが、他方で誰にでも理解できてどんなお店でも出せるレシピを惜しげなく伝えたという。この講習会には協会の会員でなくとも参加でき、つてをたどって多くの料理人が出入りしていた。これが徐々に拡散し、小樽のみならず札幌の中華料理界の重要人物を次々と世に送り出したのである。

梅月商大通り店小坂店主が再現した創業当時の梅月のあんかけ焼そば
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梅月商大通り店小坂店主が再現した創業当時の梅月のあんかけ焼そば

 鈴木氏は、「中華料理は、基本的に家庭料理であり、気取ったものではない。朝昼晩と毎日食べても飽きのこない料理を作らなければならない」という近藤祐司氏の言葉を今もはっきりと覚えていると語る。

 特に、近藤氏は異常な大盛りや劇辛といった料理で「遊ぶ」ことに否定的であった。この近藤氏の姿勢と器の大きさが、小樽にあんかけ焼そばが普及し、市民のソウルフードとなった理由の一つであったことは間違いない。

 しかし、そのような梅月も、苫小牧に建設したフリーズドライ工場や自家製麺の失敗により経営が悪化、店舗は人手に移る。昭和63年(1988年)、近藤氏は無念の死を遂げる。

 人手に渡った後も、梅月自体は営業を続けた。しかし、2階で焼き肉店を営業するなどの試みがすべて裏目に出て、平成5年(1993年)についに閉店する。ただし、当時もあんかけ焼そばは人気商品であり、梅月の帳簿を検討したある銀行員は、「あんかけ焼そば一本に絞れば、あるいは…」と漏らしたとも言われている。

 その後、平成6年(1994年)に、近藤氏の縁者であった伊藤氾氏が、2代目「梅月」を花園レインボータウンに開店した。店は一時好評を得て、平成13年(2001年)には富岡町に商大通り店を出すまでに至った。しかし、平成18年(2006年)に本店は閉店、現在は商大通り店を残すのみとなっている。商大通り店の小坂尚行店主は初代梅月で修行した最後の弟子である。

 鈴木氏は、小樽の梅月は帯広の金時と並んで、北海道の中華料理普及について中心的役割を果たしたと語る。と同時に、「デパートの買い物の後には梅月であんかけ焼そば」は小樽人の多くに共通する想い出である。梅月は、まさに小樽の街の盛衰とともにあった店であった。


(2)レストラン・ロール


レストラン・ロール厨房の写真(右列一番奥が澤田満雄氏、澤田初・寛氏提供)
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レストラン・ロール厨房の写真(右列一番奥が澤田満雄氏、澤田初・寛氏提供)

 小樽あんかけ焼そば発祥の店は一応「梅月」とされているが、戦後のきわめて短い期間輝き、あんかけ焼そばのみならず、小樽の食に大きな影響を与えた名店があった。それが、都通りに存在したレストラン・ロールである。レストラン・ロールは、昭和26年(1951年)に佐藤八郎氏が、開業し、佐藤氏の悲劇的な死の後、昭和32年(1957年)ごろには最初の業態での営業を終了しているから、その全盛期はわずか4、5年であった。短い期間にもかかわらず、現在に至るまで語り継がれるほどの店になり得たのは、ひとえに佐藤氏の才覚とそこで多くを学び、後に五十番菜館、桂苑という二つの名店を作った澤田満雄氏の力によるところが大きい。

 佐藤氏の実家はかつて札幌市内に広大な土地を所有した資産家であった。だが、「子供には経済的支援を行わない」という家風に従い、芦別にて自力でパン屋を開店、その名前が「ロール」であった。その後、佐藤氏は澤田氏を連れて小樽に移住、中華料理店「レストラン・ロール」を開業する。開業当時、すでにメニューの中にあんかけ焼そばがあったとも言われている。佐藤氏も澤田氏も当初は中華料理の専門家ではなく、料理人は佐藤氏が連れてきていたらしい。当時のロールの人気メニューは、ラーメン、焼そば、焼売、八宝菜、天津丼などであり、アワビ、北寄、エビ、イカ、フカヒレを使った高級料理も出されていたという。

 戦後の小樽は越中屋ホテルや北海屋ホテルが進駐軍に接収されたこともあり、多くの外国人兵士で賑わっていた。レストラン・ロールは中華料理店であったが、港に進駐軍の艦船が入港すると、ステーキやフレンチフライ、目玉焼きなどを出す外国人専門の洋食店に早変わりしていた。昭和29年(1954年)からロールで従業員として働いていた澤田文子さんは、当時アメリカ兵が目玉焼きをステーキの上に五つも乗せて注文したことや、日本ではなじみの無かったテーブル会計をする姿をいまでも鮮明に思い出せると語る。

 ロールは、2階には座敷とスペシャルルーム、そしてバーまでも備えていた。夜になるとレストランの従業員がホステスとなり、昼とはまた全く異なる顔を見せていたという。

 また、当時としては珍しかった SPレコードのジュークボックスがあり、テネシーワルツなどの当時の流行歌がかかっていた、と文子さんは回想する。

 また、中華のみならず、小樽で最初にジンギスカンを始めたのが、ロールであった。当時、まだ北海道では普及していなかったジンギスカンのたれを東京の雅叙園にまで学びに行ったのが佐藤氏と澤田氏であった。

 だが、この最先端中華レストランの栄光も長くは続かなかった。サイドカー付オートバイを乗り回していた佐藤氏は、バスと衝突し病院に担ぎこまれたがまもなく死亡した。佐藤氏の死後も経営を続けたロールであったが、1年後には一度閉店することになった(ロールは、その後居酒屋、おでん屋等に姿を変えながらしばらく存続した)。澤田氏は、閉店と同時に独立し、水天宮の近くに文子さんと店を構えるが、その後、昭和34年(1959年)に五十番菜館、昭和39年(1964年)に桂苑を開店する。両店ともに現在も都通りにあり、小樽を代表する中華食堂としての地位を確たるものとしている。

 両店に共通するメニューの一つに「野菜ラーメン」があるが、これはあらかじめスープを取っておく現在のラーメンとは異なり、客の顔を見てから一杯一杯作り上げていく昔風である。この味で育ったという小樽人は少なくない。平成元年(1989年)発行の『小樽食べたい読本』(亜璃西社)にも、「この店の中にはいつも、フライパンのジャージャーという音がして、その活気といったら、食べる側に『うん、今日もおいしいラーメンが出てくるな』と安心感を与える」という桂苑の紹介が見られる。この味を作り上げたのが澤田氏であり、その澤田氏は、佐藤氏が広い人脈を使って招聘する幾人もの料理人たちから味と技を学んだという。また、五十番菜館の野菜ラーメンは、かつてはデパートの従業員たちが「仕事帰りにもやしする」という隠語で語り合ったほど、人気のメニューであった。

 レストラン・ロールの存在は、その全盛期の短さゆえに今では都通りの商店主たちの間でも忘れられつつある。だが、佐藤氏は港町小樽が生んだアントレプレナーであり、後世へと食の流れを作った人であった。また、小樽の中華料理普及における澤田氏の力の大きさは多くの料理人たちが認めるところである。


(3)ホテル


戦後の小樽駅前通り。右手に小樽中央ホテルが見える。(小樽市総合博物館提供)
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戦後の小樽駅前通り。右手に小樽中央ホテルが見える。(小樽市総合博物館提供)

 かつて、小樽は商都であった。稲穂から南小樽に至るまで広く問屋街が建ち並び、海産物、繊維製品、農産物、工業原料など数々の商品が取引され、港から積み出されていった。運河沿いに立ち並ぶ倉庫街はその名残のごく一部に過ぎない。

 全国から商人たちが集まると、当然商人相手の商売が始まる。当時小樽には大小数多くの宿泊施設が存在した。そして、梅月の近藤章司氏が最初は小樽中央ホテルの料理長として来樽したように、小樽あんかけ焼そばの歴史の中で大手ホテルのレストランが果たした役割は大きい。小樽の歴史の中で、多くの中華職人が、ホテルのレストランで研鑽を積み活躍した。

スカイラウンジを備えた北海ホテル(サンモール 1番街商店街提供)
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スカイラウンジを備えた北海ホテル(サンモール 1番街商店街提供)

 戦前から戦後の長い期間小樽の旅館業界の頂点に君臨したのが北海ホテルであった。北海ホテルは、大正7年(1818年)に、「北海屋ホテル」の名前で、現在の駅前通りと中央通りの交差点(現在はグリーンホテルが立地)に当時最新鋭の洋風ホテルとして建設された。北海屋ホテルの支配人であった盛田穣氏は、今なお残る名料亭銀鱗荘を余市から移設するなど当初から食にも力を入れていた。昭和43年(1968年)には、みなとホテルが稲穂町に建設した建物を買い取り、スカイラウンジを備えたホテルとして生まれ変わる。この大ホテルは、結婚式の披露宴会場などとして小樽市民の人生に彩りを与え、記憶の中に残ることになる。

 戦前・戦後を通じて、北海ホテルに中華料理部門が存在したことは無かった。だが、昭和 50年代には、梅月の料理長であった中野鉄夫氏(現御舟=札幌市白石区=店主)が着任するなど、中華料理は宴会料理として提供されていた。それ以上に、小樽の中華料理界に与えた直接・間接の影響は大きかった。北海ホテルの流れを引いた中華料理は、現在、好(小樽市色内)で味わうことができる。

 現在は廃業してしまったホテルとして、次に挙げられるのは小樽駅前に存在した小樽国際ホテル(昭和53年開業)であろう。国際ホテルの中華料理は、比較的上品な薄口であったと言われる。国際ホテルの味は、現在も、かたの(高島漁港)で楽しむことができる。また、北海ホテル跡地に平成2年(1990年)にオープンした小樽グランドホテルは、中華レストラン桃花を擁していた。桃花のランチは小樽市民に非常に人気があり、グランドホテル本体と並んで寿司屋通りの最盛期を支えた。桃花で研鑽を積んだのが、じょっぱり亭(小樽市望洋台)の桂田洋久店長である。

国際ホテル(昭和60年頃)
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国際ホテル(昭和60年頃)

 いまでも、ホテルのレストランの料理は、多くの庶民にとっては「特別な日に食べる食事」であろう。小樽に長年暮らした人々のうち、40代以上の世代は、市内のホテルの味を良く覚えており、折に触れ懐かしそうに思い出す。それは、ホテルでの「特別な食事」が自分たちの「特別な記念日」と結びついているからだろう。

 現在の小樽においても、ホテルのレストランが提供するあんかけ焼そばは、また特別な意味を持っているようだ。平成3年(1991年)に開業した朝里クラッセホテル(小樽市朝里川温泉)と平成21年(2009年)にヒルトン小樽から経営譲渡により名称を変更したグランドパーク小樽 (小樽市築港 )の二つのホテルのレストランが提供するあんかけ焼そばは、現在、高級焼そばの二つの頂点と言える。

 小樽は、人口が全盛期の半分にまで減少し、往年の商都としての輝きを失いつつある一方で、観光都市としての再生を模索している。おそらく、小樽が「食の都」として生き返ることができるかどうかの鍵を握るのがホテルのレストランだろう。北海道では生の海鮮ばかりに目が行きがちだが、新鮮な素材を用いた小樽の中華料理が再び街の活気を取り戻すきっかけとなることもあるだろう。


(4)銀座通り


花園第一通り。左に丸井今井、奥に大国屋デパート、右手に三幸が見える。(小樽市総合博物館提供)
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花園第一通り。左に丸井今井、奥に大国屋デパート、右手に三幸が見える。(小樽市総合博物館提供)

 小樽の街の人口がもっとも多かった昭和40年代、もっとも栄えたのは、銀座通り(現サンモール一番街と花園銀座商店街)と於古発通りの交差点周辺であった。

 当時、寿司屋通りの名称はまだ無く、そのように呼んで特に観光客の目を引く必要もなかった。銀座通りには大国屋、丸井呉服店、ニューギンザの地元資本のデパートと、北海ホテルが建ち並んでいた。

 老舗のビアホールニュー三幸、喫茶店ハセガワ、うどんのかすり、政寿司、大和屋、料亭の新松、おでんのたこ虎、そして、モンパリやルンバといったキャバレーがところせましと軒を並べていた。花園銀座まで足を伸ばすと、平成 25年(2013年)に閉店した館のカボチャパイが出張のお土産に重宝されるなど人気を博していた。当時、小樽には 200軒近い喫茶店があったが、その多くが大人のための店であり、館もまた子供が立ち入れる店ではなかったという(唯一、あまとうだけが、子供も入ることができた)。

真寿・モンパリ(吉田貞子氏提供)
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真寿・モンパリ(吉田貞子氏提供)

 そんな中、小樽中華料理の中興の祖ともいえる真寿が吉田薫氏の手によって開店したのが昭和43年(1968年)である。薫氏は店主ではあったが元々は和食の職人であり、中華料理店の開業は妻の貞子さんのたっての願いであったという。世間はちょうど高度経済成長期で、丸井今井や大国屋で買い物をした後の市民がこぞって楽しんだ味が真寿であった。昭和47年(1972年)に真寿で本格的な中華料理の修業を始めた一安貞光氏(現東香楼=小樽市稲穂=店主)は、当時の小樽の中華料理店の規模では一番が梅月、二番が真寿であったと語る。店舗の 1階は 40人、 2階の宴会席は 80人ぐらいは入れたという。当時の五目焼きそばの価格は150円であった。料理長は時々替わったが、常時4、5人の料理人がいたという。

 繁華街の中にあったため、小樽のあんかけ焼そばの想い出というと、梅月よりも真寿の名前を挙げる人も少なくない。真寿は大口の顧客でもあった丸井今井小樽店が閉店した平成17年(2005年)まで存続したため、いまだにその味を記憶している市民も多い。

三幸(昭和34年、ニュー三幸提供)
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三幸(昭和34年、ニュー三幸提供)

 この界隈でいまに続く食の名店がニュー三幸である。昭和29年(1954年)に「三幸」としてサッポロビールが開業し、2度の改築を経て今に至る。小樽では一番古いビアホールであり、これまで北海道の食とビールの普及に大きな役割を果たしてきた。現在では、小樽あんかけ焼そばの普及のために、各地のイベントでも出店を続けている。

 さらに、小樽の繁栄の象徴であった丸井今井のレストランで修業していたのが若き日の朝里クラッセホテルの遠藤実料理長である。また、北海ホテルがなくなった後に、丸井今井の新店舗と併設される形で平成2年(1990年)に建設された小樽グランドホテル内の中華レストラン桃花で研鑽を積んでいたのはじょっぱり亭桂田洋久店長である。さらに花園銀座に向かえば、小樽の老舗ラーメン店である自来軒、さらに進めば五香や大丸ラーメンといった名店が存在する。また丸井今井の裏手には独特なあんかけ焼そばで知られる八珍亭があり、かつてはテレビの大食い選手権にも登場した超大盛りで知られる大王ラーメンも存在した。このように見れば、銀座通り・於古発通り交差点周辺は、あんかけ焼そばのメッカであったともいえる。

 しかし、3軒あった小樽のデパートも最初にニューギンザ、次に大国屋、そして丸井今井と姿を消し、総工費に127億円をかけた小樽丸井今井ビルの解体も始まった。これらのデパートの閉店は、縮小していく小樽経済の中で、かつてのように市外から集客することができず、小樽市内で食い合った結果であるとも言われている。かつての小樽の華やかさは今では過去のものとなり、ただその多様な食文化の中にのみ面影を留めている。

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